
≫ 住宅地の名前に残っていた、京都を代表する公家「久我家」との深いつながり
京都市伏見区の西側に、「久我」と書いて「こが」と読む地域があります。
現在は住宅地と田畑が入り交じる穏やかな地域ですが、この名前をたどっていくと、平安時代から続く公家・久我家と深く結び付いた歴史が見えてきます。
しかも興味深いのは、「貴族の久我家が先にあって、土地に久我という名前が付いた」と単純には説明できないことです。久我という地名そのものは古く、のちに村上源氏の一族がこの土地と深く関わり、やがて「久我」を家名として用いるようになりました。
今回は、伏見区久我という地名と久我家の関係、かつて存在した久我荘、そして現在の住宅地に残る歴史の痕跡をご紹介します。
≫ 今回の秘密
この記事では、次のことが分かります。
・「久我」は「こが」と読む、伏見区に古くから残る地名
・久我という地名は、公家の久我家が成立する以前から確認できる
・平安時代には村上源氏の一族がこの地に別邸「久我水閣」を構えていた
・中世には久我家と深く結び付いた荘園「久我荘」が存在した
・現在も久我大臣の墓や久我神社など、歴史を感じられる場所が残っている
≫ 秘密① 「久我」は貴族が付けた名前ではなく、もっと古くからあった
「久我は貴族ゆかりの地名?」という問いへの答えは、「深い関係はあるものの、久我家が地名を付けたわけではない」と考えるのが適切です。
久我という土地の名は古く、平安時代の史料にも確認できます。つまり、公家の久我家が家名として「久我」を名乗る以前から、この地域には久我という呼び名が存在していました。
京都市の資料では、伏見一帯には古代からさまざまな豪族が暮らしていたことが紹介されています。また、久我には賀茂氏との関係をうかがわせる古い歴史もあります。
現在の住所では、久我本町、久我東町、久我西出町、久我御旅町、久我森の宮町、久我石原町などに「久我」の名が残っています。
普段は住所として何気なく使っている二文字ですが、その歴史は中世の公家社会よりさらに奥へ続いているのです。
≫ 秘密② 平安時代、村上源氏の一族が久我に別邸を構えた
久我と貴族社会との関係がはっきり見えてくるのは、平安時代です。
久我家は村上天皇につながる村上源氏の流れをくむ公家で、のちに公家社会で高い家格を持つ家となりました。
その一族と久我の土地には、早い時期から深いつながりがありました。
平安時代の日記『中右記』には、寛治元年(1087年)の記事に久我の別邸に関係する記録があり、12世紀初めまでには「久我水閣」あるいは「久我山庄」と呼ばれる別邸がこの地に営まれていたことが確認されています。
「水閣」と聞くと豪華な宮殿を想像しますが、当時の久我は現在のような住宅地ではありません。桂川や鴨川に近い平地に田園が広がる、京都の都から南西方向へ離れた土地でした。
都で政治に携わる貴族にとって、こうした郊外の土地は荘園経営や別邸の場所として重要な意味を持っていました。
現在の久我を歩いているだけでは想像しにくいのですが、およそ900年以上前、この辺りには京都の有力貴族と結び付いた風景が広がっていたのです。
≫ 秘密③ 久我家の名前は、この「久我」という土地と結び付いている
ここで地名と名字の関係が逆転します。
もともと存在した「久我」という土地と村上源氏の一族との結び付きが深まり、その土地の名が、やがて公家の家名として定着していったのです。
村上源氏の源雅実は太政大臣まで昇った人物で、久我に邸宅を持ったことから「久我太政大臣」と呼ばれました。その系統が、後世の久我家へつながっていきます。
つまり、「貴族の久我さんが住んだから久我という地名になった」というより、「久我という土地と深く結び付いた貴族の一族が、久我家と呼ばれるようになった」と考える方が歴史の順序に近いのです。
京都には土地の名前を家名とした公家が少なくありませんが、伏見区の現在の町名から公家社会へ直接つながっていく久我は、地名の面白さを感じられる地域の一つです。
いつもの住所が、実は京都の貴族社会の系譜につながっている。これは地元の方にもぜひ知っていただきたい久我の秘密です。
≫ 秘密④ 久我には中世を通じて「久我荘」という荘園があった
久我家とこの地域の関係は、別邸だけでは終わりません。
中世には、この一帯に「久我荘」と呼ばれる荘園が成立しました。荘園とは、貴族や寺社などが権利を持った土地のことです。
史料では久我本庄・下庄、新庄・上庄などに分かれながら、久我家と久我荘との関係が中世を通じて続いたことが確認されています。
12世紀末には、後鳥羽天皇の側近として大きな力を持った源通親と久我荘との関係も史料に現れます。
ここで大切なのは、久我が単なる「貴族の別荘地」ではなかったことです。
田畑を耕す人々が暮らし、農業生産が行われ、その土地から得られる収益が京都の貴族社会とも結び付いていました。
つまり久我の歴史は、「貴族の歴史」であると同時に、この土地で代々暮らしてきた人々の生活の歴史でもあります。
現在も久我・羽束師周辺には住宅地の間に田畑が残ります。風景は大きく変わりましたが、「土地と暮らし」という視点では、中世から現代まで一本の線でつながっているようにも見えます。
≫ 秘密⑤ 現在の住宅地に「久我大臣の墓」が残っている
久我家とのつながりを現在の久我で実感できる場所の一つが、「久我大臣の墓」です。
京都市伏見区役所が紹介する「伏見区民史跡・名所めぐり」にも掲載されており、所在地は久我本町です。
京都市の説明によると、久我は村上源氏嫡流の久我氏の荘園で、源顕房の時代には「久我水閣」と呼ばれる別荘が営まれるなど、久我氏と深いつながりがありました。
現在の墓地は明治以降、久我侯爵家によって整備されたとされています。
久我という地名と久我家との関係が、単なる伝説や語呂合わせではなく、史料と現地の痕跡の両方から確認できるところが面白いところです。
住宅や道路が広がる現在の久我で、こうした場所に出会うと、「ここはずっと昔から人々の歴史が積み重なってきた土地なのだ」と実感できます。
≫ 地元民しか知らない豆知識
|久我には、久我家よりさらに古い歴史を感じさせる「久我神社」がある
久我森の宮町には久我神社があります。京都府神社庁にも掲載されている神社で、本殿は京都市の登録有形文化財となっています。
さらに京都市の文化遺産に関する調査では、久我神社は『延喜式』神名帳に記された「久何神社」に当たるとみられ、下久我地区の産土神として受け継がれてきたと紹介されています。
境内には大きなクスノキがあり、京都市は「周辺が宅地化される中、久我の森の名残である神社の緑は貴重な存在」と説明しています。
つまり久我を歩くと、公家の久我家だけではなく、それ以前へさかのぼる古い地域史にも触れられるのです。
「久我=公家」という一つの答えだけでは終わらないところが、この土地の面白さです。
≫ 実際に歩いてみよう
久我の歴史は、有名観光地を次々と巡るというより、現在の住宅地や田園の中に残る痕跡を探しながら歩くのが似合います。
|おすすめ散策ルート
久我の杜周辺
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久我神社
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久我本町周辺
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久我大臣の墓周辺
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久我・羽束師に残る田園風景
|注目してほしいポイント
久我神社では社殿だけでなく、境内を包む樹木にも注目してみてください。周囲の宅地化が進む以前、この地域に広がっていた緑の風景を想像する手掛かりになります。
久我本町では、「この辺りがかつて久我家と深く結び付いた荘園だった」と考えながら歩いてみると、普通の住宅地の見え方が少し変わります。
|交通について
久我・久我の杜地域は鉄道駅のすぐ近くに広がる地域ではなく、市バスなどを利用する場所が多くなります。神川出張所へは市バス「久我の杜」停留所から徒歩圏です。
散策前には京都市交通局などで最新の運行情報をご確認ください。
|散策するときのお願い
久我大臣の墓周辺を含め、久我は観光地ではなく、現在も多くの方が生活している地域です。
私有地や農地へ入らず、住宅の前で長時間立ち止まらないなど、地域の暮らしに配慮しながら歩いてください。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
久我・久我の杜周辺で住まいを見るときは、伏見桃山周辺とは少し違う視点が必要です。
この地域は桂川の西側に広がり、住宅地と田畑が混在しています。京都市も久我・羽束師地域について、かつて田園地帯だった場所で宅地化が進んできた地域と説明しています。
そのため物件を見る際には、建物の間取りや価格だけでなく、最寄りのバス停までの道、通勤・通学時間帯の交通、前面道路の幅、買い物施設までの移動方法などを実際に確認することが大切です。
一方で、久我神社の森や田畑など、昔の地域の姿を感じられる場所が住宅地の近くに残っているのも久我らしさです。
不動産の住所に書かれた「久我」という二文字。その背景まで知って街を見ると、物件情報だけでは分からない地域の個性が見えてきます。
≫ 編集後記
久我という地名を調べていて面白いのは、「貴族ゆかりの土地」という一言では収まらないことです。
久我という土地があり、そこへ貴族が別邸を構え、荘園との関係を深め、やがて土地の名前が公家の家名として歴史に刻まれていく。その一方で、土地では農業が営まれ、人々の暮らしが何世代にもわたって続いてきました。
そして今、その場所には住宅が建ち、学校へ向かう子どもたちが歩き、昔の森を思わせる神社の緑が残っています。
次に「久我」という住所を見かけたら、「こが」と読むだけで終わらず、その向こうにある千年近い時間を少し思い出してみてください。いつもの伏見の景色が、少し奥行きを持って見えてくるかもしれません。
≫ FAQ|久我の地名と久我家についてよくある質問
Q1.京都市伏見区の「久我」は何と読みますか?
「こが」と読みます。現在も久我本町、久我東町、久我西出町、久我御旅町、久我森の宮町、久我石原町などの町名に使われています。
Q2.久我という地名は、公家の久我家が由来ですか?
単純に久我家が地名を付けたわけではありません。久我という地名は古くから存在し、その土地と深く結び付いた村上源氏の一族が、のちに久我家と呼ばれるようになったと考えるのが適切です。
Q3.久我家とはどのような家ですか?
村上天皇の流れをくむ村上源氏の嫡流にあたる公家です。源雅実は太政大臣となり、久我に邸宅を持ったことから「久我太政大臣」と呼ばれました。後世、久我家は公家社会で高い家格を持つ家となりました。
Q4.久我荘とは何ですか?
現在の伏見区久我一帯に存在した中世の荘園です。久我家との関係が深く、本庄・新庄などに分かれながら、中世を通じて久我家とのつながりが続きました。
Q5.現在の久我で歴史を感じられる場所はありますか?
久我本町の久我大臣の墓や、久我森の宮町の久我神社などがあります。ただし周辺は現在の住宅地ですので、私有地へ入らず、地域の暮らしに配慮して見学してください。
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