2026.9.13
≫ 鹿児島出身の大久保利通が、なぜ伏見に?実は明治維新へ向かう重要な局面で、伏見は何度も彼の政治活動と交わっていました
大久保利通と聞くと、鹿児島の薩摩藩や明治政府を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
一見すると京都市伏見区とは遠い人物のようですが、幕末の伏見を歩いてみると、大黒寺、薩摩藩邸、寺田屋、そして鳥羽・伏見の戦いへと、大久保につながる場所が次々と現れます。
ただし、大久保は伏見で刀を振るって活躍した武将というより、人と人、藩と藩、そして朝廷をつなぎながら政治を動かした人物でした。
今回は、大久保利通と伏見の意外に深い関係をたどりながら、現在の伏見の町に残る明治維新の足跡をご紹介します。
≫ 今回の秘密
この記事では、次のことが分かります。
・大久保利通と伏見を結ぶ大きな存在が「薩摩藩」だったこと
・大久保が幕末の伏見で薩摩藩内の難しい調整に関わっていたこと
・伏見の大黒寺で西郷隆盛と大久保利通が話し合ったと伝えられていること
・鳥羽・伏見の戦いが、大久保の政治家としての次の行動につながったこと
・現在も大黒寺や薩摩島津伏見屋敷跡などに、その歴史を感じられること
≫ 秘密① 大久保利通と伏見を結んだのは「薩摩藩の京都での拠点」だった
大久保利通は1830年、薩摩藩の鹿児島城下に生まれました。
そのため「大久保利通=鹿児島」という印象が強いのですが、幕末になると政治の中心は京都へ移り、大久保も薩摩藩の政治活動を担って京都と薩摩の間を動くようになります。
ここで重要になるのが伏見です。
現在の伏見区東境町には、かつて薩摩藩の伏見屋敷がありました。京都市の史跡案内では、濠川沿い、下板橋の西詰に薩摩藩邸が置かれていたことが紹介されています。
伏見は京都の中心部から少し離れていますが、当時は京都と大坂を結ぶ水運と街道の重要拠点でした。
薩摩から瀬戸内海、大坂を経て京都へ向かう人々にとって、伏見は単なる通過点ではなく、京都政局へ入っていくための玄関口のような場所だったのです。
薩摩藩邸の近くには、藩と深い関係を持つ大黒寺もあります。
つまり現在の伏見区役所や丹波橋周辺を歩くと、幕末の薩摩藩が京都で活動するための重要な舞台が、意外なほど身近な範囲に集まっていたことが分かります。
≫ 秘密② 大久保は「寺田屋事件」の時代、薩摩藩をまとめる難しい役割を担っていた
伏見と幕末を語るうえで避けて通れない場所が寺田屋です。
寺田屋というと坂本龍馬が襲撃された1866年の事件が有名ですが、それより4年前の1862年にも、薩摩藩士同士が衝突する大きな事件が起きています。
当時、薩摩藩の実力者・島津久光は兵を率いて上洛し、朝廷と幕府の関係を立て直す政治改革を進めようとしていました。
ところが薩摩藩内には、より急進的な行動を求める有馬新七らの藩士たちがいました。
彼らが伏見の寺田屋に集まったことで、久光は暴発を防ごうとします。
この緊迫した局面で、大久保も急進派を鎮めるための説得や調整に関わりました。
最終的には説得がまとまらず、寺田屋で薩摩藩士同士が斬り合う事態となります。
亡くなった人々は後に「薩摩九烈士」と呼ばれ、現在、大黒寺の墓所に眠っています。
ここで注目したいのは、大久保が単純な「倒幕一筋の人物」ではなかったことです。
幕末の政治状況を読みながら、島津久光の意向、朝廷、藩内の若い志士たちの間を調整する立場にありました。
伏見は、大久保が後に明治政府で発揮することになる「政治をまとめる力」が試された場所の一つだった、と見ることができます。
≫ 秘密③ 伏見の大黒寺には「西郷と大久保が話し合った場所」が伝わっている
今回のテーマで、ぜひ知っていただきたい場所が伏見区鷹匠町の大黒寺です。
大黒寺は江戸時代から薩摩藩と深い関係を持ち、「薩摩寺」とも呼ばれてきました。
京都市伏見区役所の資料によると、この寺には一時期、西郷隆盛が住んでいたといわれ、大久保利通が訪れて長州藩との関係について話し合った場所でもあります。
西郷隆盛と大久保利通。
明治維新を語るとき必ずと言ってよいほど登場する二人ですが、その二人の政治活動につながる場所が、伏見の住宅地の中に残っているのです。
しかも大黒寺には、寺田屋事件で亡くなった薩摩九烈士の墓もあります。
境内を歩けば、薩摩藩内部の対立から、その後の西郷・大久保らによる政治活動まで、幕末の流れを一つの場所で感じることができます。
有名な歴史人物の足跡というと、立派な城や巨大な記念館を想像しがちです。
ところが伏見では、現在の住宅地に溶け込んだ小さな寺院の中に、日本の政治を動かした人物たちの記憶が残っています。
これこそ、伏見を歩いて初めて気付く歴史の面白さではないでしょうか。
≫ 秘密④ 鳥羽・伏見の戦いで、大久保は「戦場」より政治の側から新政府を動かした
1868年1月、伏見は再び日本史の大きな転換点となります。
鳥羽・伏見の戦いです。
伏見では、旧幕府軍が伏見奉行所を拠点とし、新政府側の薩摩・長州などの部隊は御香宮神社周辺に布陣しました。
現在の伏見桃山駅や桃山御陵前駅周辺で、本格的な市街戦が行われたのです。
大久保自身を、伏見の前線で部隊を率いて戦った武将のように描くのは正確ではありません。
大久保が大きな力を発揮したのは、むしろ政治の側でした。
王政復古によって成立した新政府の中で、大久保は岩倉具視らとともに新しい政治体制をつくる中心人物の一人となっていました。
鳥羽・伏見の戦いでは薩摩・長州などを中心とする新政府軍が旧幕府軍を退け、戦いは戊辰戦争へと広がっていきます。
国立歴史民俗博物館には、1868年1月10日に大久保が薩摩藩士へ送った書簡が残っています。
そこでは鳥羽・伏見で新政府側が勝利し、旧幕府側が大坂城を離れた状況を伝えながら、今後も味方の結束が重要であるという考えを示しています。
つまり大久保にとって鳥羽・伏見の勝利は、戦争の終わりではありませんでした。
新しい政府をどうまとめ、日本という国をどうつくり直すのか。その次の段階へ進む出発点だったのです。
≫ 秘密⑤ 鳥羽・伏見の戦いからわずか約2週間後、大久保は「新しい日本の中心」を考え始めた
大久保利通と伏見の関係を調べると、さらに興味深い時間のつながりが見えてきます。
鳥羽・伏見の戦いが始まったのは1868年1月3日。
そして戦いで旧幕府軍が敗れた直後の1月17日、大久保は新政府の総裁・有栖川宮熾仁親王に政治改革や大坂への行幸などについて意見を述べ、その後、大坂遷都を建言していきました。
大坂遷都とは、新しい時代に合わせて政治の中心を大坂へ移そうという構想です。
最終的にそのまま実現したわけではありませんが、大久保が明治という新しい国の形を早くから考えていたことが分かります。
ここで時系列を並べると、とても印象的です。
・伏見で旧幕府軍と新政府軍が激突する
・旧幕府軍が敗れて大坂方面へ退く
・大久保が新政府の次の政治体制を考える
・やがて日本は江戸から明治という新しい時代へ進む
伏見は「幕末の戦場」だっただけではありません。
大久保の歩みから見ると、旧体制を終わらせた戦いと、新しい国家をつくる政治がほとんど間を置かずにつながった場所でもあるのです。
≫ 地元民しか知らない豆知識
|大黒寺と薩摩藩邸跡は、実は歩いて歴史をつなげられる
大久保利通の足跡を感じるために、遠く離れた史跡を巡る必要はありません。
伏見区鷹匠町の大黒寺から、東境町に残る薩摩島津伏見屋敷跡までは、現在の伏見中心部を歩きながらたどることができます。
大黒寺の近くに薩摩藩邸があったことは、京都市伏見区役所の資料にも記されています。
さらに現在の東境町には、薩摩島津伏見屋敷跡を示す石碑が残っています。
つまりこの一帯は、点として残る史跡を一つずつ見るだけではなく、「薩摩藩が伏見のどこを拠点としていたのか」を歩いて感じられる地域なのです。
そして少し南へ進めば寺田屋、東へ向かえば御香宮神社や伏見奉行所跡があります。
幕末の薩摩藩、寺田屋事件、坂本龍馬、鳥羽・伏見の戦いという別々に見える歴史が、実は現在の伏見中心部の比較的近い範囲に重なっています。
伏見の幕末史は「史跡を見る」より、「史跡と史跡の距離を歩く」とさらに面白くなるのです。
≫ 実際に歩いてみよう
今回は、大久保利通個人の銅像などを探すのではなく、「大久保が活動した薩摩藩の伏見」を感じるルートがおすすめです。
|おすすめ散策ルート
京阪丹波橋駅・近鉄丹波橋駅
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大黒寺
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薩摩島津伏見屋敷跡
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伏見区中心部
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御香宮神社
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伏見奉行所跡
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寺田屋周辺
大黒寺では、薩摩九烈士の墓などを通して、1862年の寺田屋事件と薩摩藩の歴史を感じられます。
そこから薩摩島津伏見屋敷跡へ向かうと、薩摩藩がなぜ伏見に拠点を持っていたのか、実際の町の位置関係から想像しやすくなります。
さらに御香宮神社と伏見奉行所跡を訪ねれば、1868年の鳥羽・伏見の戦いで新政府側と旧幕府側がどれほど近い距離で対峙していたのかが分かります。
最後に寺田屋周辺へ向かうと、大久保、西郷、薩摩藩士、坂本龍馬など、それぞれ別々に覚えていた幕末の人物や出来事が、一つの「伏見」という場所でつながってきます。
|歩くときのポイント
・春と秋は比較的散策しやすい季節です
・伏見桃山周辺は比較的平坦ですが、御香宮神社から桃山方面へ進むと坂道が増えます
・史跡の中には石碑だけが残る場所もあるため、事前に位置を確認しておくと見つけやすくなります
・寺院や神社では参拝者や地域の方への配慮を忘れないようにしましょう
・住宅地では私有地へ入らず、道路をふさがないように見学してください
歴史上の人物だけを追うのではなく、「なぜこの場所に藩邸があり、なぜここで戦いが起きたのか」と地形や道路を見ながら歩くのがおすすめです。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
大久保利通と薩摩藩の足跡が残る大黒寺や東境町周辺は、現在では歴史地区として切り離されているわけではなく、住宅、学校、区役所、商店などが集まる日常の生活圏になっています。
丹波橋駅周辺から伏見桃山・桃山御陵前方面へ歩くと、京阪・近鉄の駅に近い市街地と、昔からの細い道、寺社、城下町由来の町割りが自然に重なっていることに気付きます。
住まいを探すとき、駅からの徒歩分数だけでは分からないのが、こうした道幅や高低差、交通量、買い物動線、そして町ごとの雰囲気です。
伏見では一本通りが変わるだけで景色が変わることもあります。物件を見るときには、ぜひ駅から実際に歩き、歴史の痕跡と現在の暮らしの両方を確かめてみてください。
≫ 編集後記
大久保利通という名前から伏見の町を思い浮かべる人は、まだそれほど多くないかもしれません。
しかし大黒寺から薩摩藩邸跡、寺田屋、御香宮神社へと歩いていくと、大久保が生きた幕末の政治が急に身近な出来事に感じられます。
歴史を変えたのは、有名な会議室や戦場だけではありません。人が宿泊し、相談し、手紙を運び、次の行動を決めた町もまた歴史の舞台でした。
次に丹波橋や伏見桃山を歩くときは、「この辺りを薩摩の人々も歩いていたのか」と少しだけ想像してみてください。いつもの伏見の道が、日本が大きく変わった時代へ続く道に見えてくるかもしれません。
≫ FAQ|大久保利通と伏見についてよくある質問
Q1.大久保利通は伏見に住んでいたのですか?
大久保利通は薩摩藩出身で、伏見を生涯の本拠とした人物ではありません。ただし幕末には薩摩藩の政治活動を通じて京都・伏見と深く関わり、大黒寺などにその足跡が伝わっています。
Q2.大久保利通と大黒寺にはどのような関係がありますか?
京都市伏見区役所の資料では、一時期西郷隆盛が住んでいたといわれる大黒寺を大久保利通が訪れ、長州藩との関係について話し合った場所と紹介されています。大黒寺は薩摩藩と深い関係を持つ寺院です。
Q3.大久保利通は寺田屋事件に関係していたのですか?
はい。1862年の寺田屋事件に至る緊迫した状況で、大久保は島津久光側で急進派の薩摩藩士を鎮めるための説得や調整に関わりました。最終的には寺田屋で薩摩藩士同士の衝突が起きています。
Q4.大久保利通は鳥羽・伏見の戦いで戦ったのですか?
大久保を伏見の前線で部隊を率いた武将のように捉えるのは適切ではありません。大久保は新政府の政治面で重要な役割を担い、鳥羽・伏見の戦いの勝利後には新しい政府や国家のあり方について積極的に建言しています。
Q5.伏見で大久保利通に関係する場所を歩いて見られますか?
はい。大黒寺を中心に、薩摩島津伏見屋敷跡、御香宮神社、伏見奉行所跡、寺田屋周辺などを歩くと、大久保個人だけでなく、彼が活動した薩摩藩と幕末の伏見の関係を立体的に感じることができます。
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