
≫ 城を守る「堀」が、京都と大坂を結ぶ「水の道」になった
伏見桃山から中書島方面へ歩くと、白壁と黒い焼杉板の酒蔵のそばを、静かな水路が流れています。
春には桜、初夏には柳が水面を彩り、十石舟がゆっくり進むこの水辺。「昔から自然に流れていた川」と思っている方も多いかもしれません。
ところが、現在の伏見を代表する水辺の一つである濠川は、豊臣秀吉による伏見城と城下町づくりに深く関係する人工的な水路です。
しかも、その役割は城を守るための「堀」だけではありませんでした。城を造るための資材を運び、やがて京都と大坂を結ぶ舟運を支え、伏見を日本有数の港町へ発展させる都市の大動脈になっていきます。
今回は、濠川はなぜ造られたのか、伏見城・伏見港・酒蔵の町とどのようにつながっているのかをご紹介します。
≫ 今回の秘密
この記事では、次のことが分かります。
・濠川は伏見城の築城と城下町整備に伴って開削された水路であること
・最初から観光のための川ではなく、城の外堀と水運という役割を持っていたこと
・豊臣秀吉は城だけでなく、宇治川や巨椋池を含む水の流れまで大きく造り替えたこと
・江戸時代には伏見港と高瀬川を結ぶ水運ネットワークの一部として活躍したこと
・現在の酒蔵と水辺の景観が、約430年前の都市計画の上に成り立っていること
≫ 秘密① 濠川は「自然の川」ではなく、伏見城の外堀として開削された
まず結論からいうと、現在の濠川につながる水路は、豊臣秀吉が伏見城と城下町を整備した時代に人工的に造られたものです。
京都市の「伏見南浜界わい景観整備計画」でも、濠川について「伏見城の外堀として開削され」、後に交通の動脈となった水路であることが説明されています。
秀吉が伏見の本格的な開発を進めたのは16世紀末。天正20年(1592)に指月で隠居所の造営を始め、その後、伏見城と大規模な城下町へ計画が発展していきました。
城には、敵の侵入を防ぐ「堀」が必要です。
しかし伏見の場合、その堀は単なる防御施設では終わりませんでした。
水をたたえた堀に船を通せば、人や物を運ぶことができます。つまり濠川は、城を守る施設であると同時に、城下町を動かす交通路にもなったのです。
現在の穏やかな水辺だけを見ていると想像しにくいのですが、濠川の出発点には「城郭」と「物流」という二つの役割がありました。
≫ 秘密② 秀吉は「川を掘った」だけではなく、宇治川の流れまで変えた
伏見のまちづくりで驚かされるのは、豊臣秀吉が城や道路だけでなく、周辺の水系そのものを大きく造り替えたことです。
当時の伏見南部には、現在は干拓されて姿を消した巨大な「巨椋池」が広がっていました。
宇治川も現在とは異なる姿で巨椋池とつながっていました。
秀吉は伏見城と城下町の整備に合わせ、堤防を築くなど大規模な治水工事を行い、宇治川を巨椋池から切り離す方向へ流路を整えました。
そして伏見城下へ水路を引き込み、城の外堀として利用するとともに、築城資材などを運べる水運のルートとして整備しました。
つまり秀吉が造っていたのは、天守だけではありません。
城、堀、港、道路、堤防、船着場、武家屋敷、商人の町を一体として配置する、大規模な都市計画だったのです。
現在の感覚でいえば、行政の中心を造るのと同時に、道路、物流拠点、河川整備までまとめて計画するようなものです。
伏見の水辺を知ると、「なぜ秀吉は伏見を選んだのか」という疑問への答えも見えてきます。
≫ 秘密③ 城を造るための水路が、やがて京都と大坂を結ぶ「物流の大動脈」になった
豊臣時代に整えられた伏見の水路は、その後の時代にも大きな役割を果たしました。
江戸時代初期には豪商・角倉了以によって高瀬川が開削され、京都中心部と伏見が水路で結ばれます。
一方、伏見から南へは宇治川、さらに淀川を通じて大坂方面へ船で移動することができました。
つまり伏見は、京都と大坂を結ぶ水運の「乗り換え拠点」のような場所になったのです。
伏見港には人や荷物を運ぶ多くの船が出入りし、大坂と伏見を結ぶ旅客船として知られる三十石船も往来しました。
船を待つ旅人が泊まる船宿も並び、その一つとして知られるのが寺田屋です。
城を守るためにつくられた水路が、時代が変わると商人や旅人が行き交う交通路へ変わっていく。
濠川の歴史は、伏見が「城下町」から「港町・商業都市」へ発展していく歴史そのものでもあります。
≫ 秘密④ 酒蔵が濠川の近くに並ぶ景色にも、水運の歴史が隠れている
現在の濠川周辺を歩くと、水辺の近くに大きな酒蔵が並んでいることに気付きます。
これは単に「水辺がきれいだから酒蔵を建てた」という話ではありません。
伏見では良質な地下水に恵まれたことに加え、城下町や港町として多くの人が集まり、さらに船で商品を運べる環境が整っていました。
酒を造るには原料が必要です。そして完成した酒を京都や大坂などへ運ばなければなりません。
大量の荷物を一度に運べる船は、鉄道やトラックがない時代には非常に重要な輸送手段でした。
京都市が伏見南浜地区の景観を説明する際にも、濠川などの水路網や船着場と、酒造業によって生まれた大規模な酒蔵が、この地域を特徴づけるものとして挙げられています。
つまり現在私たちが「伏見らしい」と感じる、酒蔵、水路、柳、船という風景は、観光用につくられたセットではありません。
人が働き、商品を造り、船で運び、商いを続けてきた結果として生まれた「産業の風景」なのです。
≫ 秘密⑤ 約330年後にも「船を通すための巨大施設」が造られた
豊臣秀吉の時代から始まった伏見の水運は、江戸時代だけで終わりませんでした。
明治以降も伏見港は重要な役割を持っていましたが、大正から昭和にかけて宇治川の改修工事が進み、濠川と宇治川をそのまま船で行き来することが難しくなります。
そこで造られたのが「三栖閘門」です。
三栖閘門は1929年(昭和4)3月31日に完成しました。
閘門とは、水位の違う二つの水路の間で船を通すため、水門を閉じて内部の水位を上げ下げする施設です。
国土交通省によると、完成した年には早くも2万隻以上の船が通航しました。
鉄道や道路が発達すると舟運は次第に衰退し、1962年(昭和37)には淀川舟運が姿を消します。
それでも三栖閘門は現在も残り、伏見が本当に「港のある町」だったことを伝えています。
16世紀末に造られた水路と、20世紀に造られた近代土木施設が一本の水の道でつながっている。ここまで長い時間の変化を歩いて確かめられるのも、伏見の面白さです。
≫ 地元民しか知らない豆知識
|「濠川」の「濠」は、お城の堀を連想させる字
「濠」という字は、城などの周囲に設ける水をたたえた堀を表すときに使われます。
京都市の景観整備計画でも、濠川は伏見城の「外堀として開削」された水路とされています。
つまり「濠川」という名前そのものが、この水路と伏見城との深い関係を感じさせてくれるのです。
|宇治川派流と濠川は、案内によって呼び方が少し分かりにくい
伏見の水辺を調べると「宇治川派流」と「濠川」という二つの名前が出てきます。
京都市の文化遺産紹介では、城下を流れる水路について「宇治川派流(濠川)」と表現する一方、伏見区役所の散策案内では、伏見であい橋付近で宇治川派流と濠川が合流すると説明しています。
現在の案内や地図では区間によって名称が使い分けられるため、町歩きでは「名前が違うから全く別の歴史を持つ川」と単純に考えるより、伏見城下と伏見港を形づくってきた水路網として見ると理解しやすくなります。
伏見であい橋周辺で水路の形を実際に眺めると、地図だけでは分かりにくい「水の町・伏見」の姿が見えてきます。
≫ 実際に歩いてみよう
|濠川から伏見港まで「水の道」をたどる散策ルート
京阪・伏見桃山駅または近鉄・桃山御陵前駅
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大手筋商店街
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酒蔵の町並み
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濠川・宇治川派流周辺
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伏見であい橋
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中書島周辺
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伏見港公園
↓
三栖閘門・三栖閘門資料館
寄り道や見学を含めて、2〜3時間ほど見ておくとゆっくり楽しめます。
ポイントは、水辺だけを見るのではなく「水路と町の位置関係」を見ることです。
酒蔵がどちらを向いて建っているのか、橋がどこに架かっているのか、水路がどこで合流するのか。そんなことを意識すると、かつて船が行き交っていた町の姿を想像しやすくなります。
|子どもと歩くなら
「この川は自然にできたのかな?」「昔は何を船で運んでいたのかな?」と話しながら歩けば、歴史と地理を一緒に楽しめる散策になります。
三栖閘門資料館では、閘門の役割を模型などで学ぶことができます。入口にはスロープも設けられています。
なお、国土交通省の最新案内では三栖閘門周辺の宇治川展望スポットは閉鎖中とされています。現地の案内に従って見学してください。
水辺では小さなお子さまから目を離さず、酒蔵や住宅の敷地には入らないようにしましょう。写真撮影の際も道路や通路をふさがず、地域で暮らす方への配慮を忘れずに楽しんでください。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山・中書島周辺で住まいを探すとき、駅からの距離や買い物の便利さだけを見ていると、この地域の特徴を十分にはつかめません。
桃山丘陵側から西へ歩くと土地が低くなり、その先に大手筋商店街、酒蔵、水路、伏見港へと続く町があります。約430年前から続く地形と水路の関係が、現在の道路や街区にも影響を残しています。
特に水辺に近い地域では、景観の良さだけで判断せず、土地の高さや周辺道路、京都市の防災情報マップなども確認することが大切です。
一方で、京阪・近鉄・JRなど複数の鉄道を利用できるエリアがあり、商店街のある市街地から少し歩くだけで酒蔵や水辺の風景に出会えるのも伏見らしいところです。
物件情報の「徒歩○分」だけではなく、実際に駅から歩き、坂、水路、道幅、買い物動線、朝夕の雰囲気まで確かめる。私たちは、そんな街の見方も住まい選びの大切な一部だと考えています。
≫ 編集後記
濠川のほとりを歩いていると、柳が揺れ、十石舟が進み、酒蔵の白壁が水面に映ります。
今では伏見を代表する穏やかな風景ですが、その始まりをたどれば、城を守り、資材を運び、新しい都市を造るための水路でした。
そして城の時代が終わっても水路は残り、商人や旅人を運び、酒を運び、伏見港を育てました。
歴史的な建物は失われることがあります。しかし、川や道の形は、何百年も前のまちづくりを意外なほど長く伝えてくれます。
次に濠川を歩くときは、水面だけでなく、その水路がどこから来て、どこへ向かっているのかにも目を向けてみてください。いつもの伏見の景色の中に、約430年前の「都市の設計図」が見えてくるかもしれません。
≫ FAQ|濠川についてよくある質問
Q1.濠川は自然にできた川ですか?
いいえ。濠川につながる水路は、豊臣秀吉による伏見城と城下町の整備に伴い、城の外堀などとして人工的に開削された歴史を持つ水路です。
Q2.濠川はなぜ造られたのですか?
伏見城の外堀として城を守る役割に加え、築城資材や物資を船で運ぶ水路として利用する目的がありました。その後は伏見港の舟運を支える交通路として発展しました。
Q3.濠川を造ったのは豊臣秀吉ですか?
現在の濠川につながる水路網の成立は、豊臣秀吉が16世紀末に進めた伏見城築城と城下町整備に深く関係しています。秀吉は宇治川の流路変更や堤防整備など、周辺の水系を含む大規模な土木事業を行いました。
Q4.濠川と宇治川派流は同じ川ですか?
案内資料によって表現が異なります。京都市の文化遺産紹介では「宇治川派流(濠川)」という表現が見られる一方、伏見区役所の散策案内では伏見であい橋付近で宇治川派流と濠川が合流すると説明されています。現在の地図や現地案内に従って区間を確認するのが分かりやすいでしょう。
Q5.濠川では現在も船に乗れますか?
伏見の水路では現在、観光船の十石舟などが季節運航されています。ただし運航期間や運航状況は年によって変わる可能性があるため、乗船前に公式の最新情報をご確認ください。
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