Vol.78 ▶ 豊臣秀吉が愛した伏見とは?晩年の居城から今の街へ残ったもの



≫ 秀吉にとって伏見は、城を建てただけの場所ではなく、晩年を過ごし、町そのものをつくり変えた特別な拠点でした

 

伏見桃山を歩いていると、「大手筋」「桃山」「毛利」「島津」など、どこか戦国時代を思わせる名前に出会います。

酒蔵の町として親しまれている伏見ですが、現在の町の骨格をさかのぼると、約430年前にこの地へやって来た豊臣秀吉の存在にたどり着きます。

ただし、「秀吉が伏見を愛した」という言葉が、そのまま史料に残されているわけではありません。それでも秀吉は、伏見に隠居所を築き、本格的な城へ造り替え、港や堤防、道路、城下町まで整え、最後は伏見城で生涯を終えました。

その行動を追っていくと、伏見が秀吉の晩年にとってどれほど重要な場所だったのかが見えてきます。今回は、秀吉が伏見で何をし、現在の伏見に何を残したのかをご紹介します。

 


 

≫ 今回の秘密

 

この記事では、次のことが分かります。

・伏見は最初から巨大な城下町として計画されたわけではない
・秀吉は伏見を晩年の生活と政治の中心へ変えていった
・現在の大手筋や町名、坂道にも伏見城下町の形が残っている
・伏見港や宇治川の流れまで、城づくりと深く関係している
・御香宮神社には今も伏見城を感じられる痕跡がある

 


 

≫ 秘密① 秀吉が最初に伏見へ造ろうとしたのは、「天下の城」ではなく隠居所だった

 

豊臣秀吉が伏見で造営を始めたのは文禄元年(1592年)です。

最初に選ばれたのは、現在の桃山町泰長老付近にあたる「指月の岡」と呼ばれた高台でした。

現在では伏見城と聞くと巨大な城郭を思い浮かべますが、京都市の資料によると、当初は茶会や宴を楽しむための隠居所として計画されていました。

秀吉はすでに天下統一を成し遂げ、大坂城や京都の聚楽第という大きな政治拠点を持っていました。伏見は、その第一線から少し離れた晩年の居所として始まったのです。

ところが、文禄2年(1593年)に秀頼が誕生します。

その後、伏見の屋敷は大規模に造り替えられ、政治の中心となる本格的な城へと変わっていきました。

つまり伏見城は、「最初から完成された巨大城郭を造る」という一つの計画だけで生まれたのではありません。

秀吉自身の立場や家族、政権の状況が変わる中で、隠居所から天下を動かす拠点へと成長していったのです。

 


 

≫ 秘密② 伏見は「城のある町」ではなく、秀吉が町ごと造り変えた都市だった

 

秀吉が伏見で造ったものは、城だけではありません。

文禄3年(1594年)ごろから、武家屋敷、寺社、町家、道路などを配置する城下町の整備が急速に進められました。

桃山丘陵の西側には全国から集められた大名たちの屋敷が並び、そのさらに西側には商人や職人が暮らす町が広がりました。

現在の伏見を歩いても、その痕跡を見つけることができます。

例えば、伏見大手筋商店街がある「大手筋」は、もともと伏見城の表玄関である大手門へ向かう道でした。

また、桃山周辺には、大名屋敷に由来するとされる町名が今も数多く残っています。

・桃山町島津
・桃山町正宗
・桃山町毛利長門東
・桃山町松平筑前
・桃山町丹後
・桃山町治部少丸

現在の町名と当時の屋敷の範囲が完全に一致するとは限りませんが、伏見に全国の有力大名が集められていたことは、絵図や発掘調査から確認されています。

スーパーへ向かう道、子どもの通学路、住宅街の住所。その中に戦国時代の城下町の記憶が普通に残っているのが、伏見の面白さです。

 


 

≫ 秘密③ 秀吉は「川の流れ」まで変え、伏見を巨大な交通拠点にした

 

秀吉が伏見を重視した理由を考えるとき、城だけを見ていては分かりません。

伏見は、京都と大坂の間にあり、宇治・奈良・近江方面へもつながる、水運と陸運の重要地点でした。

秀吉は文禄3年(1594年)、伏見城の建築資材を運ぶために伏見港を整え、宇治川周辺でも大規模な河川・堤防工事を進めました。

太閤堤や槙島堤などを整備し、巨椋池と宇治川の流れにも大きく手を加えています。

城を造るために始まった交通整備は、結果としてその後の伏見の発展を支えることになりました。

現在、酒蔵の間を流れる宇治川派流や濠川を眺めると、穏やかな水辺の風景に見えます。

しかし、その水辺の歴史をたどると、城の建築資材を運び、人や物が集まり、後には米や薪、酒などを運ぶ物流の町へと発展していった伏見の姿が見えてきます。

秀吉の城づくりが、後世の「港町・伏見」「酒どころ・伏見」へつながる土台の一つになったのです。

 


 

≫ 秘密④ 大地震で城を失っても、秀吉はわずか10日後に新しい城づくりを始めた

 

文禄年間に完成した指月の伏見城は、慶長元年(1596年)の大地震で大きな被害を受けました。

現在「慶長伏見地震」などと呼ばれるこの地震によって、完成して間もない城は倒壊します。

ところが京都市の資料によると、秀吉はそのわずか10日後には、指月の北東側にある木幡山で新しい伏見城の築城を始めました。

ここは、現在の明治天皇伏見桃山陵周辺を中心とする地域です。

一度城を失ったのであれば、別の場所へ移る選択肢もあったはずです。

それでも秀吉は伏見を離れず、同じ地域に再び大規模な城を築きました。

「伏見を愛していた」と感情まで断定することはできませんが、少なくとも秀吉が伏見という場所を簡単には手放さなかったことは、この再建の早さからもうかがえます。

新しい伏見城には御殿だけでなく、茶亭や学問所なども設けられました。

政治のためだけではなく、文化や生活の場としても整えられていたことが分かります。

 


 

≫ 秘密⑤ 秀吉は最後まで伏見で暮らし、伏見城で生涯を終えた

 

木幡山に再建された伏見城へ秀吉が入ったのは慶長2年(1597年)です。

そして翌慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見城で生涯を終えました。

つまり伏見は、秀吉が晩年に造った町というだけでなく、実際に最後の時間を過ごした場所でもあります。

亡くなる約5か月前の1598年3月には、同じ伏見区の醍醐寺で有名な「醍醐の花見」を催しました。

醍醐寺に残る記録からも、秀吉が桜や茶屋を用意し、大規模な宴を開いたことが確認できます。

伏見城での生活、茶の湯、醍醐での花見。

天下人としての政治だけを追うと見落としてしまいますが、秀吉の晩年には、現在の伏見区内を舞台にした出来事が数多くあります。

伏見は秀吉にとって「城を置いた場所」というより、政治、家族、文化、そして晩年の生活が重なった場所だったと考えると、街の見え方が変わってきます。

 


 

≫ 地元民しか知らない豆知識

 

伏見で秀吉の時代を感じたいなら、実は「お城のような建物」だけを見るより、御香宮神社を訪れる方が面白いかもしれません。

秀吉は伏見城築城の際、御香宮神社を城の鬼門を守る神として城内へ移しました。その後、徳川家康によって現在地へ戻されています。

さらに現在の御香宮神社の表門は、伏見城の大手門を徳川頼房が拝領し、元和8年(1622年)に寄進したものと伝えられており、国の重要文化財に指定されています。

境内には「伏見城跡出土遺物展示室」もあり、発掘調査などで見つかった金箔瓦や家紋入りの瓦などを見ることができます。

ここで、もう一つ知っておきたいことがあります。

現在の伏見桃山城運動公園に立つ天守風の建物は、秀吉が建てた伏見城そのものではありません。

昭和39年(1964年)に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の施設として建てられたものです。

本物の伏見城を探すなら、派手な天守よりも、町名、坂道、御香宮、大手筋、水路といった「現在の町に残る痕跡」を見た方が、430年前の伏見へ近づけます。

 


 

≫ 実際に歩いてみよう

 

秀吉の伏見を感じるなら、「城下町から城跡の高台へ上がる」方向で歩くと、地形の違いがよく分かります。

|おすすめ散策ルート

京阪「伏見桃山」駅・近鉄「桃山御陵前」駅
↓
伏見大手筋商店街
↓
御香宮神社
↓
桃山の旧大名屋敷に由来する町名が残る住宅地
↓
明治天皇伏見桃山陵参道
↓
伏見桃山城運動公園周辺

寄り道をしながら歩く場合、1時間30分から2時間程度を目安にするとよいでしょう。

大手筋周辺は比較的平坦ですが、御香宮神社から桃山丘陵へ向かうにつれて坂道が増えていきます。

ベビーカーや小さなお子さまと歩く場合は、明治天皇伏見桃山陵方面まで無理に上らず、大手筋商店街と御香宮神社を中心に回るだけでも十分に歴史を感じられます。

明治天皇伏見桃山陵は宮内庁の案内では原則として年間を通して参拝できますが、参拝時間や注意事項は訪問前に最新情報をご確認ください。

桃山周辺には静かな住宅地も多くあります。町名や地形を観察するときは、私有地へ入らず、大声を出さず、道路をふさがないように歩きましょう。

 


 

≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと

 

伏見桃山周辺で住まいを探すとき、「駅まで徒歩何分」という数字だけでは分からないことがあります。

京阪伏見桃山駅や近鉄桃山御陵前駅から西側の大手筋・酒蔵方面は比較的平坦ですが、東側の桃山丘陵へ向かうと坂道や高低差が増えていきます。

同じ徒歩10分でも、平坦な10分と坂道を上る10分では、毎日の通勤、通学、買い物、自転車移動の感覚が変わります。

一方で、少し高台へ入ると落ち着いた住宅地が広がる場所もあり、道路幅や日当たり、周囲の建物との高低差なども一街区ごとに違います。

伏見城下町の造成によって生まれた段差や坂が、400年以上たった今も暮らしの条件として関わっているところが伏見桃山の面白いところです。物件を見るときは、建物だけでなく、ぜひ駅から実際に歩いて「土地の高さ」まで感じてみてください。

 


 

≫ 編集後記

 

豊臣秀吉というと、大坂城や天下統一の印象が強く、伏見は数ある城の一つと思われがちです。

けれども伏見を歩いてみると、城を二度築き、港を整え、道を通し、大名を集め、町をつくり、最後はここで生涯を終えた人物の痕跡が、驚くほど身近に残っています。

しかも、その痕跡は博物館の中だけではありません。

いつもの商店街の名前、住宅地の坂、住所、水路、神社の門。私たちが何気なく見ている景色の中に、秀吉の時代が重なっています。

次に伏見桃山を歩くときは、「ここは430年前、どんな場所だったのだろう」と少しだけ立ち止まってみてください。いつもの伏見が、きっと少し違った町に見えてくるはずです。

 


 

≫ FAQ|豊臣秀吉と伏見についてよくある質問

 

Q1.豊臣秀吉はなぜ伏見に城を建てたのですか?

伏見は京都・大坂・奈良・近江方面を結ぶ交通の要所で、水運にも恵まれていたためです。ただし最初から巨大な城を造る計画だったわけではなく、1592年に造り始めた施設は当初、隠居所としての性格が強かったとされています。

Q2.豊臣秀吉は伏見城に住んでいたのですか?

はい。秀吉は伏見を晩年の主要な居所とし、1597年には木幡山に再建された伏見城へ入りました。1598年8月18日に伏見城で亡くなっています。

Q3.今の伏見桃山城は豊臣秀吉が建てた城ですか?

いいえ。現在、伏見桃山城運動公園にある天守風建物は、1964年に開園した遊園地の施設として造られたものです。秀吉時代の伏見城そのものではありません。

Q4.伏見に豊臣秀吉時代の痕跡は残っていますか?

残っています。大手筋、旧大名屋敷にちなむ町名、城下町造成による地形、御香宮神社の表門、伏見港や宇治川派流など、現在の町の中で確認できます。

Q5.秀吉が伏見を「愛した」という史料はあるのですか?

「伏見を愛した」とそのまま表現した史料を根拠にするものではありません。ただし秀吉が伏見に隠居所を築き、地震後も城を再建し、城下町や港を整え、晩年を過ごして伏見城で亡くなったことは確認されています。その行動から、伏見が晩年の秀吉にとって非常に重要な場所だったことが分かります。


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