Vol.54 ▶ 「横大路」は大きな道路の名前?伏見に残る地名の由来をたどる



≫ 「横大路」は今の道路名ではない?古い街道と水運の記憶を残す地名

 

伏見区の西側に「横大路(よこおおじ)」という地域があります。

地名だけを見ると、「昔ここに横大路という大きな道路があったのかな?」と思いませんか。

実は、その想像はまったく的外れではありません。ただし、現在の横大路に「横大路通」という一本の大通りがあるわけでもなく、地名の成り立ちは少し複雑です。

江戸時代の地誌には、横大路を古い「往還道」や鳥羽離宮に関係する道と結び付ける記録が残されています。

さらにこの地域には、草津湊、魚市場、馬借など、人や物を運んだ歴史が重なっています。

今回は「横大路」という名前を入口に、伏見西部がかつて京都の物流を支えた交通の要所だった歴史をご紹介します。

 


 

≫ 今回の秘密

 

この記事では、次のことが分かります。

・「横大路」は現在の特定の大通りの名前ではないこと
・江戸時代の地誌が地名を古い往還道と結び付けていること
・別の古い資料には鳥羽離宮の「横大路」とする説明もあること
・横大路には京都と大坂をつないだ草津湊や魚市場があったこと
・現在の町名や神社、石碑に交通の町だった記憶が残っていること

最初に結論をお伝えすると、「横大路」は古くこの地域を通った重要な道と深く関係する地名と考えられています。ただし、その道の位置や由来について古い資料の説明は一つではないため、「この一本の道路が名前の由来」と単純に断定するのは慎重であるべき地名です。

 


 

≫ 秘密① 「横大路」は、現在の一本の大通りを指す名前ではない

 

「横大路」という文字を見ると、「横に延びる大きな道」を想像します。

実際、「大路」は古くから主要な道路を表す言葉として使われてきました。しかし現在の伏見区横大路を地図で探しても、「横大路通」という一本の道路が地域を貫いているわけではありません。

では、なぜ地域そのものが横大路と呼ばれるようになったのでしょうか。

手掛かりになるのが、江戸時代にまとめられた地誌です。

正徳元年(1711年)刊行の『山州名跡志』では、横大路について、かつて東側に往還道があり、伏見城の西側に位置し、摂津・河内方面から都へ至る街道に関係して「横大路」と呼ばれた趣旨の説明があります。

つまり横大路という地名の背景には、単なる道路の大きさではなく、「都へ向かう人や物が通る重要な道」があった可能性が見えてくるのです。

ただし、これは江戸時代の地誌が伝える由来です。地名が生まれた瞬間を示す同時代史料ではないため、「これだけが唯一の由来」と断定するのではなく、有力な説明の一つとして考えるのが適切でしょう。

 


 

≫ 秘密② 別の古い資料では「鳥羽離宮の横大路」だったと説明されている

 

横大路の由来を面白くしているのが、古い資料によって説明が少し異なることです。

『日本歴史地名大系』が紹介する『出来斎京土産』には、横大路について「もとは鳥羽の離宮の横大路なり」という趣旨の記述があります。

鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇によって造営が進められた大規模な離宮です。現在の伏見区竹田・中島・下鳥羽周辺には、その歴史に関係する土地が広がっています。

横大路は、その下鳥羽のさらに南側に位置します。

つまり一方では「摂津・河内方面から都へ向かう街道」、もう一方では「鳥羽離宮に関係する横大路」という説明が伝わっているのです。

二つは必ずしも完全に矛盾するとは限りません。鳥羽周辺は京都から南へ向かう重要な交通地域であり、横大路もその交通網の中に位置していました。

大切なのは、「横大路=現在の○○通」と一本の道路に置き換えて考えるのではなく、京都の南側に広がっていた古い道と地域の関係から生まれた地名として見ることです。

 


 

≫ 秘密③ 横大路は「陸の道」だけでなく「水の道」も集まる場所だった

 

横大路の歴史を理解するには、道路だけを見ていては十分ではありません。

この地域の大きな特徴は、桂川や宇治川、そして淀川へ続く水運と深く結び付いていたことです。

京都市がまとめた「横大路地域まちづくり計画」では、横大路地域は平安時代から室町時代にかけて農業を中心とした地域である一方、淀川水運の最北端にあたる草津湊を通じ、平安京へ物資を供給し、人が行き交う場所として栄えたとされています。

さらに桂川の堤防沿いには、京の七口の一つである鳥羽口方面へつながる「鳥羽の造り道」が通り、京都と大坂を結ぶ交通にも関係していました。

ここが横大路を見るうえで大切なポイントです。

昔の交通は、現在のように自動車や鉄道だけで考えることはできません。街道を歩く人、馬で荷物を運ぶ人、川を行き来する船が組み合わさって、一つの物流ネットワークをつくっていました。

横大路は、その「陸」と「水」が出会う場所の一つだったのです。

 


 

≫ 秘密④ 横大路には、京都の台所を支えた魚市場まであった

 

横大路が交通の要所だったことを、現在も目で確認できる場所があります。

羽束師橋東詰南側、横大路草津町に残る「魚市場遺跡碑」です。

京都市の史跡案内によると、この付近は昔「草津湊」と呼ばれ、難波方面から京都へ向かう交通の要衝として栄えました。

豊臣秀吉による伏見城築城の時代には、生鮮魚介類を扱う問屋が並ぶようになり、横大路から京都市中へ魚を運ぶ様子は江戸時代の『拾遺都名所図会』にも描かれています。

さらに慶応元年(1865年)には幕府が魚市場の公設を命じたとされ、横大路は京都へ魚を供給する拠点の一つとしてにぎわいました。

ところが明治10年(1877年)、京都と神戸を結ぶ鉄道が開通すると物流の中心は大きく変化します。横大路の魚市場は役割を失い、業者は京都駅前へ移っていきました。

船と街道の時代から、鉄道の時代へ。

横大路の魚市場跡は、京都の物流が大きく変わった歴史まで伝えてくれる場所なのです。

 


 

≫ 秘密⑤ 「馬の神様」が残るのは、横大路に運送の仕事が集まっていたから

 

横大路の交通の歴史は、もう一つ意外な場所にも残っています。

横大路天王後にある田中神社です。

京都市の「伏見区民史跡・名所めぐり」によると、田中神社は横大路と下鳥羽南部の氏神で、治暦年間(1065~1069年)の創建と伝えられています。

そして注目したいのが、この神社が「馬の神様」として信仰されてきたことです。

京都市は、その理由について、古くこの地域に「馬借」が軒を連ねていたためと紹介しています。

馬借とは、馬を使って人や荷物を運んだ運送業者のことです。

つまり横大路には、港があり、魚市場があり、街道があり、さらに荷物を運ぶ馬とその担い手がいたことになります。

現在では住宅や事業所、道路が広がる地域ですが、田中神社の「馬の神様」という信仰を知ると、かつて荷物を積んだ馬が行き交っていた横大路の姿が少し身近に感じられます。

 


 

≫ 地元民しか知らない豆知識

 

|昔は「横大路」を「よこうち」と呼ぶこともあった?

江戸時代の『出来斎京土産』には、「横大路」を「横小路」と書くことがあり、世間では「よこうち」と呼ばれていたという趣旨の記述があります。

今では当たり前のように「よこおおじ」と読みますが、地名は何百年もの間に、表記や呼び方が揺れることがあります。

もう一つ面白いのは、現在の住所です。

横大路草津町、横大路西海道、横大路上ノ浜町、横大路下ノ坪、横大路畔ノ内など、横大路には土地の姿や交通、水辺、農地を連想させる町名が数多く残っています。

住所をただの記号として見るのではなく、一つずつ意味を考えながら地図を眺めてみると、昔の横大路の景色が浮かんでくるようです。

 


 

≫ 実際に歩いてみよう

 

横大路は、伏見桃山の酒蔵地区のように観光施設がまとまった地域ではありません。

だからこそ、「昔の交通」をテーマに歩くと、この地域ならではの面白さが見えてきます。

|おすすめ散策ルート

田中神社
↓
横大路の旧集落周辺
↓
横大路草津町
↓
魚市場遺跡碑
↓
羽束師橋周辺

田中神社では「馬の神様」という横大路の陸上交通の記憶を感じ、そこから西へ進んで魚市場遺跡碑へ向かうと、今度は水運と物流の歴史につながります。

最後に羽束師橋付近から桂川周辺の広い地形を眺めてみてください。現在の道路だけを見ていたときとは違い、「なぜこの場所に港や市場が必要だったのか」を想像しやすくなります。

|歩くときのポイント

・春や秋など気温の穏やかな季節がおすすめです
・幹線道路は交通量が多いため横断時は十分注意してください
・河川や堤防周辺では立入禁止区域へ入らないでください
・住宅地では大声を出さず、私有地へ入らないようにしましょう
・史跡だけでなく、道の方向、堤防、町名にも注目してみましょう

小さなお子さまと歩く場合は、交通量の多い道路や河川周辺では特に安全に注意してください。

 


 

≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと

 

横大路で住まいを考えるときは、伏見桃山駅周辺などの鉄道駅を中心とした地域とは、少し違う視点が必要です。

地域内では幹線道路やバス、自動車・自転車での移動が生活に関わるため、「駅から徒歩何分」だけでは実際の暮らしやすさを判断しにくい場所があります。

また横大路周辺は河川に近い低平地を含みます。不動産を購入するときは、道路幅や交通量、日常の買い物動線だけでなく、京都市のハザードマップで洪水などの災害リスクを住所ごとに確認することも大切です。

同じ「横大路」という住所でも、幹線道路との位置関係、周囲の土地利用、バス停までの距離、道路の通りやすさなどは場所によって異なります。

物件資料の数字だけで判断せず、平日と休日、昼と夕方など時間を変えて実際に周辺を歩いてみる。それが横大路で住まいを見るときの大切なポイントです。

 


 

≫ 編集後記

 

「横大路」という地名を調べ始めると、一本の大きな道路の話で終わると思っていました。

ところが見えてきたのは、鳥羽から続く古い道、都へ向かう往還、草津湊、魚市場、馬借、そして川を行き来した船です。

建物がなくなり、交通手段が変わっても、地名や神社、石碑には昔の町の役割が静かに残っています。

横大路を通る機会があれば、「ここは昔、京都へ人や物を送り出す場所だった」と思い出してみてください。

いつもの道路の向こうに、馬の足音や船が行き交った伏見のもう一つの風景が見えてくるかもしれません。

 


 

≫ FAQ|横大路の名前の由来についてよくある質問

 

Q1.京都市伏見区の「横大路」は、道路の名前が由来ですか?

古い重要な道と関係する地名と考えられています。江戸時代の『山州名跡志』では、摂津・河内方面から都へ至る往還道との関係が説明されています。一方、別の地誌には鳥羽離宮の「横大路」に由来するという説明もあり、詳しい成立過程を一つに断定することはできません。

Q2.現在も「横大路」という大きな道路がありますか?

現在の伏見区に「横大路」という名称の一本の大通りがそのまま残っているわけではありません。「横大路」は現在、横大路草津町など多くの町名に冠される地域名として受け継がれています。

Q3.横大路の草津湊とは何ですか?

横大路付近にあった水運の拠点です。京都市の資料では、淀川水運の最北端の湊として平安京への物資供給や人の往来に関わった地域とされています。後には魚市場も発達しました。

Q4.横大路に魚市場があったというのは本当ですか?

はい。横大路草津町の羽束師橋東詰南には魚市場遺跡碑があります。横大路の魚市場は京都への生鮮魚介類の流通を担いましたが、明治期に鉄道輸送が発達すると役割を終え、業者は京都駅前へ移っていきました。

Q5.横大路で交通の歴史を感じられる場所はありますか?

田中神社と魚市場遺跡碑が代表的です。田中神社は、かつて周辺に馬借が多かったことから「馬の神様」として信仰されてきました。二つを合わせて見ると、横大路の陸運と水運の歴史を知ることができます。


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