
≫ 京都の治安を守った剣客たちが、最後に「戦場」として立った町
「新選組」と聞くと、壬生や池田屋を思い浮かべる方が多いでしょう。
ところが、新選組の歴史を最後までたどると、京都市伏見区は決して脇役ではありません。
幕末の最終局面、新選組は伏見奉行所を拠点にし、土方歳三の指揮で鳥羽・伏見の戦いに参加しました。局長の近藤勇が戦いに参加できなかった理由も、実は伏見にあります。
いつもの京町通、御香宮神社、墨染、淀。
そこを歩いてみると、新選組が「京都の治安組織」から「戦争を戦う部隊」へ変わっていった瞬間が見えてきます。
≫ 今回の秘密|この記事で分かること
- 新選組が、なぜ伏見奉行所にいたのか
- 鳥羽・伏見の戦いで新選組が何をしたのか
- なぜ近藤勇ではなく土方歳三が指揮したのか
- 京町通や淀千両松に残る新選組の足跡
- 伏見が「幕末から明治への境目」といえる理由
最初に結論をお伝えすると、新選組にとって伏見は単なる滞在場所ではありません。
新選組が京都時代の最後に本格的な戦闘を経験し、その後の運命が大きく変わった場所なのです。
≫ 秘密① 新選組は「壬生だけの組織」ではなかった
新選組は文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛警護をきっかけに京都へ残った浪士たちを中心として生まれました。
近藤勇、土方歳三、沖田総司らが京都守護職・松平容保のもとで活動し、京都の治安維持を担います。
そのため「新選組=壬生」という印象が強いのですが、幕末が終盤に入ると活動の舞台は大きく変わります。
慶応3年(1867年)、大政奉還、そして王政復古へと政治情勢が急変。
京都では旧幕府側と薩摩・長州などとの緊張が高まっていきました。
このころ新選組は伏見へ移り、伏見奉行所を拠点とするようになります。
京都市に残る「近藤勇遭難の地」の解説でも、慶応3年12月18日の時点で新選組が伏見奉行所へ陣を移していたことが確認できます。
ここが大切です。
伏見は単なる京都郊外ではありませんでした。
大坂から京都へ向かう水路と街道が集まり、京都の南側を守る重要地点です。
つまり、新選組が伏見にいたのは偶然ではありません。
伏見そのものが、京都をめぐる攻防の最前線になっていたのです。
≫ 秘密② 近藤勇は伏見で狙撃され、鳥羽・伏見の戦いに出られなかった
「鳥羽・伏見の戦いの新選組」と聞くと、近藤勇が先頭で戦っていた姿を想像しませんか。
実際には違います。
慶応3年12月18日、近藤勇は軍議のため二条城方面へ向かい、その帰りに伏見街道の墨染付近で狙撃されました。
襲撃したのは、御陵衛士の生き残りとされる阿部十郎、篠原泰之進ら。
弾は近藤の肩に当たり、近藤は伏見奉行所へ逃げ込みました。その後、大坂で療養することになります。
そして、そのまま年が明けます。
慶応4年(1868年)正月。
鳥羽・伏見の戦いが始まったとき、近藤勇は戦場にいませんでした。
新選組を率いたのは副長・土方歳三です。
これは意外と知られていません。
「近藤勇と土方歳三が並んで鳥羽・伏見を戦った」というイメージを持つ方もいますが、少なくとも戦いの中心となった伏見では、負傷した近藤に代わって土方が指揮を執っていました。
しかも近藤が撃たれた墨染は、今も普通に人や車が行き交う住宅地です。
歴史の教科書に出てくる人物が、今の伏見の生活道路を馬で駆けていた。
そう考えるだけで、墨染の町が少し違って見えてきます。
≫ 秘密③ 鳥羽・伏見の戦いで、新選組は伏見奉行所から出撃した
慶応4年1月3日、鳥羽方面で旧幕府軍と新政府軍が衝突。
その砲声は伏見にも伝わり、伏見でも戦闘が始まりました。
新選組や会津藩など旧幕府側は、現在の桃陵団地や桃陵中学校周辺にあった伏見奉行所を拠点とします。
一方、新政府側はその北側、高台にある御香宮神社周辺などに布陣しました。
地図で見ると驚きます。
御香宮神社と伏見奉行所跡は、ものすごく離れているわけではありません。
今なら歩いて移動できる距離です。
つまり現在の桃山・京町界隈で、大砲や銃を使う本格的な戦闘が起きていました。
土方歳三率いる新選組は、京町通などを進み、御香宮側の新政府軍に対して攻撃を試みたと京都市は紹介しています。
銃撃を受けながら刀を抜いて戦った場面も伝えられています。
ここで「刀の新選組対、近代兵器の新政府軍」と単純化しすぎるのは注意が必要です。
旧幕府側にも銃器はあり、戦い全体が「刀対鉄砲」だったわけではありません。
それでも伏見では、新政府軍側の砲撃が大きな力を発揮しました。
伏見奉行所は砲撃を受けて炎上。
旧幕府軍は拠点を維持できなくなり、淀方面へ後退していきます。
新選組にとって伏見は、京都で築いてきた立場が崩れていく大きな転換点になりました。
≫ 秘密④ 京町通には、今も鳥羽・伏見の戦いの「傷」が残っている
歴史の記事を読んでも、「昔ここで戦いがありました」と言われるだけでは、なかなか実感が湧きません。
ところが伏見には、戦いを感じられる場所があります。
その一つが京町通です。
京都市の史跡案内では、土方歳三率いる新選組が京町通を進み、御香宮にいた薩摩側への攻撃を試みたと紹介されています。
さらに大手筋近くの老舗料亭・魚三楼には、鳥羽・伏見の戦いの際にできたと伝えられる弾痕が今も残っています。
京都市も、伏見奉行所から出る旧幕府軍と、大手筋側の新政府軍が京町通周辺で戦った際のものと紹介しています。
ここが伏見の面白いところです。
史跡だけが別世界のように保存されているのではありません。
その横で今も買い物をし、学校へ通い、電車に乗り、普通の暮らしが続いています。
歴史の上に現代の生活が重なっている。
これこそ伏見らしい風景だと思います。
≫ 秘密⑤ 新選組は伏見から淀へ退き、仲間を失った
伏見奉行所が炎上すると、旧幕府軍は南へ後退します。
戦いは伏見だけでは終わりません。
淀方面へ移り、宇治川沿いでも激しい戦闘が続きました。
なかでも新選組にとって大きな場所が淀堤千両松です。
京都市によると、ここでは新政府軍と新選組が激しく戦い、新選組幹部の井上源三郎が討死。
監察の山崎烝も重傷を負ったとされています。
壬生で誕生した新選組が、伏見へ移動し、墨染で近藤が撃たれ、伏見奉行所で戦い、京町通を駆け、そして淀へ退いていく。
地図の上に線を引いてみると、新選組の京都時代の終わりが、伏見区を南北に貫いていることが分かります。
鳥羽・伏見の戦いの後、土方歳三らは関東、東北、箱館へと戦いの舞台を移していきました。
そう考えると伏見は、
「京都の新選組」が終わり、「戊辰戦争を戦う新選組」が始まった町
ともいえるのです。
≫ 実際に歩いてみよう|新選組と鳥羽・伏見の戦いをたどる散策
おすすめは、京阪・近鉄の駅を利用しながら「高低差」を感じて歩くルートです。
近鉄桃山御陵前駅・京阪伏見桃山駅
→ 御香宮神社
→ 伏見奉行所跡
→ 京町通
→ 魚三楼周辺
→ 京阪丹波橋・墨染方面
時間は立ち寄りながら約1時間30分〜2時間が目安です。
もっと歩きたい方は、別日に淀方面へ足を延ばし、千両松周辺も訪れると、新選組が退却していった方向を体感できます。
おすすめは春と秋。
御香宮から伏見奉行所跡へ歩くときは、ぜひ地形にも注目してください。
御香宮側が高く、旧奉行所側が低いことが分かります。
「なぜ砲撃する側がここを選んだのか?」
実際に立ってみると、地図だけでは見えない戦場の姿が少し分かってきます。
子どもと歩くなら、
「奉行所はどこにあった?」
「御香宮とどちらが高い?」
「新選組はどちらへ逃げた?」
と地図を見ながら探すと、歴史がぐっと身近になります。
≫ 地元民しか知らない豆知識
御香宮神社に、伏見奉行所の“庭”が残っている?
鳥羽・伏見の戦いで焼失した伏見奉行所。
建物は失われましたが、京都市の案内では、奉行所の庭園の一部が御香宮神社へ移されたと紹介されています。
これ、なかなか面白い話です。
戦いでは「敵味方」に分かれた場所なのに、現在は奉行所の記憶が御香宮の境内に残っているわけです。
建物がなくなっても、石や庭、道、地形は残る。
伏見を歩くときは、史跡碑だけでなく「土地そのもの」を見ると、歴史が急に立体的になります。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山周辺の魅力は、歴史があることだけではありません。
京阪・近鉄・JRの複数路線が使え、大手筋商店街を中心に買い物や飲食、医療など日々の生活に必要な施設が集まっています。
一方で、御香宮神社や桃山丘陵、宇治川派流など、少し歩けば歴史や自然に触れられます。
不動産の仕事で伏見の町を歩いていると、「この道にも名前がある」「この坂にも理由がある」と気づかされることが本当に多くあります。
新しいマンションの横に幕末の史跡があり、昔からの商店の前を通学する子どもたちが歩く。
そんな「昔と今の距離の近さ」が、伏見に暮らす面白さの一つではないでしょうか。
≫ 編集後記
新選組について調べ始めると、どうしても近藤勇や土方歳三といった有名人物の物語に目が向きます。
けれど伏見を歩いてみると、本当の主役は「町」なのではないかと思えてきます。
墨染の道、京町通の町並み、御香宮の高台、伏見奉行所跡、そして淀へ続く道。
人は去っても、地形や道は残ります。
毎日何気なく歩いている道が、160年ほど前には日本の歴史が大きく動いた場所だった。
それを知った瞬間、普通の町角が小さな史跡に見えてきます。
伏見は、知れば知るほど歩きたくなる町です。
≫ FAQ|新選組と伏見についてよくある質問
Q1.新選組は伏見に住んでいたのですか?
幕末の最終局面に、新選組は伏見奉行所を拠点として活動しました。長期間ずっと伏見を本拠にしていたわけではありませんが、鳥羽・伏見の戦い直前には伏見が重要な活動拠点となっていました。
Q2.鳥羽・伏見の戦いで新選組を指揮したのは近藤勇ですか?
主に指揮したのは土方歳三です。近藤勇は戦いの直前に墨染付近で狙撃され、大坂で療養していたため、本格的な戦闘には参加できませんでした。
Q3.伏見奉行所は現在も残っていますか?
建物は残っていません。鳥羽・伏見の戦いの砲撃で焼失しました。現在は跡地を示す石碑などから、その場所を知ることができます。
Q4.新選組は御香宮神社でも戦ったのですか?
御香宮神社周辺には新政府側の薩摩藩などが陣を置き、南側の伏見奉行所に旧幕府軍や新選組が布陣しました。新選組は御香宮側への攻撃を試みています。
Q5.伏見で新選組ゆかりの場所を歩いて見られますか?
はい。御香宮神社、伏見奉行所跡、京町通、墨染の近藤勇遭難地周辺、さらに淀の千両松などをたどると、新選組と鳥羽・伏見の戦いを地理的に感じられます。
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