
≫ 京都と大坂を結ぶ「伏見」は、幕末を動かす人たちの交差点だった
坂本龍馬と伏見。
この二つの名前を聞くと、ほとんどの方が「寺田屋」を思い浮かべるのではないでしょうか。
けれども、少し不思議です。
土佐出身の龍馬は、なぜ京都の中心部ではなく、何度も伏見に姿を見せたのでしょう。
その答えを探していくと、寺田屋という一軒の宿だけでは説明できません。
幕末の伏見は、京都と大坂を結び、人・物・情報が集まる巨大な交通拠点でした。
つまり龍馬にとって伏見は、「有名な事件が起きた町」ではありません。
日本を動き回るために、非常に都合のよい町だったのです。
≫ 今回の秘密|この記事で分かること
・坂本龍馬が伏見を何度も利用した理由
・寺田屋が単なる旅館ではなかったこと
・伏見港が京都と大坂を結んでいた仕組み
・寺田屋事件が起きた本当の背景
・現在の伏見を歩くと龍馬の時代が見えてくる理由
≫ 秘密① 龍馬が目指した京都への「玄関口」が伏見だった
現在なら、大阪から京都へ行くときは電車に乗ればすぐです。
ところが幕末は違います。
当時、人や荷物を大量に運ぶ重要な交通手段の一つが「船」でした。
江戸時代の伏見港には、三十石船や過書船など、多くの船が出入りしていました。
大坂から淀川を上り、宇治川を経て伏見へ着く。
そして伏見から街道を通って京都市中へ向かう。
このルートは、多くの旅人や商人、大名までもが利用した交通の大動脈でした。
港の中心だった京橋周辺には、本陣や脇本陣、船宿、旅籠が集まっていました。
京都市観光協会の資料では、この一帯には本陣4軒、脇本陣2軒、船宿や旅籠39軒があったと紹介されています。
今の感覚で言えば、
「新幹線駅」
「高速道路のインターチェンジ」
「物流ターミナル」
「ホテル街」
が一か所に集まっているような町です。
日本各地を動き回っていた龍馬が、伏見を利用した理由が少し見えてきます。
伏見は「京都の南にある町」ではありません。
幕末の人々にとって、京都へ入るための大きな玄関口だったのです。
≫ 秘密② 寺田屋は「龍馬の宿」というより情報が集まる場所だった
寺田屋は、もともと伏見の船宿です。
船で到着した旅人が泊まり、次の目的地へ向かう場所でした。
そこには当然、さまざまな人が集まります。
商人。
船頭。
各藩の武士。
京都へ向かう人。
大坂から来た人。
今で言えば、ホテルのロビーと駅前の情報交換所を合わせたような場所だったのかもしれません。
寺田屋の女将・お登勢も、龍馬との関係を考えるうえで欠かせない人物です。
京都市観光協会の資料では、お登勢は志士たちを援助し、龍馬は彼女を「おかあ」と呼んで慕っていたと紹介されています。
ここが面白いところです。
龍馬が寺田屋を利用した理由は、
「安かったから」
「有名な宿だったから」
だけではなかったでしょう。
信頼できる人物がいる。
仲間と会える。
京都にも大坂にも動きやすい。
人や情報が集まる。
こうした条件がそろった場所だったと考えると、寺田屋が龍馬の活動拠点の一つになった理由がよく分かります。
≫ 秘密③ 伏見そのものが幕末政治の最前線だった
伏見に集まっていたのは、旅人だけではありません。
薩摩藩をはじめ、多くの藩や政治勢力がこの町を重要視していました。
その象徴が、1862年の「寺田屋騒動」です。
薩摩藩の急進派が寺田屋に集まり、藩内で衝突が起こり、死者が出ました。
実はこの事件に坂本龍馬は直接関係していません。
ここは混同されやすいポイントです。
寺田屋では、
1862年の「寺田屋騒動」と、
1866年に龍馬が襲われた「寺田屋事件」
という別の出来事が起きています。
なぜ同じ場所で、幕末史を代表する事件が二度も起きたのでしょう。
偶然とは考えにくいでしょう。
伏見が京都と大坂を結ぶ交通の要所であり、薩摩藩をはじめ政治活動を行う人々が集まりやすい場所だったからです。
つまり寺田屋が歴史を生んだというより、
「伏見という町の立地が、歴史を呼び込んだ」
と見るほうが、町の本当の姿に近いのです。
≫ 秘密④ 薩長同盟の直後、龍馬は伏見で襲われた
1866年1月。
坂本龍馬は、薩摩藩と長州藩が手を結ぶ薩長同盟の成立に重要な役割を果たしました。
国立国会図書館も、龍馬が西郷隆盛と木戸孝允らによる盟約に立ち会ったことを紹介しています。
高知県立坂本龍馬記念館によると、薩長同盟成立から2日後、龍馬は伏見の寺田屋で伏見奉行所の役人に踏み込まれました。
このとき龍馬と一緒にいたのが、長府藩士・三吉慎蔵です。
襲撃を察知したお龍が危険を知らせ、龍馬たちは応戦しながら脱出。
龍馬は手に深い傷を負いながらも、薩摩藩側の保護を受けて難を逃れました。
京都市の資料では、伏見奉行所の捕方に囲まれた龍馬が寺田屋から逃れ、薩摩藩邸にかくまわれたことが記されています。
ここで考えてみたいのは、
「なぜ龍馬は危険な時期にも伏見にいたのか」
ということです。
答えは一つではありません。
しかし、京都と大坂を行き来できる交通の便利さ。
薩摩藩とのつながり。
寺田屋のお登勢との信頼関係。
仲間と接触しやすい環境。
こうした条件が重なっていたことは、伏見という場所の重要性を物語っています。
≫ 秘密⑤ 龍馬が伏見を選んだ理由は、400年前から続く「立地」にあった
実は、龍馬より約270年前。
豊臣秀吉も、伏見の立地に注目していました。
京都市は伏見について、京都・大坂・奈良・近江を結ぶ、水路と陸路の交通の要所だったと説明しています。
秀吉は伏見城を築き、港を整備しました。
その後、角倉了以による高瀬川の整備などによって京都と伏見、大坂を結ぶ水運網がさらに発展します。
つまり、
秀吉が選んだ伏見。
江戸時代の大名が利用した伏見。
幕末の志士が集まった伏見。
龍馬が行き来した伏見。
すべてに共通しているのが「交通の良さ」なのです。
そして面白いことに、その特徴は現在にも残っています。
伏見桃山・丹波橋周辺では、京阪・近鉄・JRという複数の鉄道路線を利用できます。
400年前は船と街道。
現在は電車と道路。
交通手段は変わっても、「人が行き交う町」という伏見の性格は変わっていません。
これが今回、最もお伝えしたかった秘密です。
坂本龍馬が伏見を何度も訪れたのは偶然ではありません。
龍馬は、伏見という町が持っていた「つながる力」を利用していたのです。
≫ 実際に歩いてみよう
|龍馬と港町・伏見を感じる散策ルート
おすすめは京阪中書島駅から歩き始めるコースです。
中書島駅
→ 伏見港周辺
→ 京橋
→ 寺田屋
→ 竜馬通り商店街
→ 宇治川派流
→ 酒蔵の町並み
→ 大手筋商店街
→ 京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前駅
ゆっくり歩いて約2時間。
食事や買い物を楽しめば、半日ほど遊べます。
寺田屋は京阪中書島駅から徒歩約5分です。
|おすすめの季節
春と秋が特におすすめです。
春は宇治川派流周辺の桜。
秋は柳や酒蔵の町並みを眺めながら、気持ちよく歩けます。
|写真スポット
・宇治川派流と酒蔵
・寺田屋周辺
・京橋付近
・十石舟
・竜馬通り商店街周辺
昔の水路を意識しながら撮影すると、「港町伏見」らしい写真になります。
|子どもと歩くなら
「昔の駅を探そう」
というテーマで歩くのがおすすめです。
江戸時代に電車はありません。
船着場や船宿が、今の駅やホテルのような役割を持っていました。
「龍馬はどこから船で来たのかな?」
と話しながら歩けば、歴史がぐっと身近になります。
≫ 地元民しか知らない豆知識
寺田屋の現在の建物は、龍馬が襲われた当時の建物そのものではない
寺田屋には、幕末の雰囲気が色濃く残っています。
そのため、
「この建物の中で龍馬が襲われた」
と思っている方も少なくありません。
しかし京都市公式の案内では、寺田屋は1868年の鳥羽伏見の戦いで罹災・焼失し、現在の建物はその後に再建されたものとされています。
ここは地元でも意外と知られていないポイントです。
現在の寺田屋を見るときは、
「建物そのものを見る」
だけでなく、
「この場所周辺で何が起きたのか」
を想像してみてください。
そうすると、歴史の見え方が大きく変わります。
もう一つ。
現在の伏見には「竜馬通り商店街」があります。
幕末の一人の青年の名前が、150年以上たった今も町の日常の中に生きている。
これも伏見らしい風景です。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山周辺を歩いていると、歴史と日常生活の距離の近さに驚きます。
寺田屋を見た数分後には商店街があり、スーパーや飲食店があり、その先には京阪や近鉄の駅があります。
少し歩けば酒蔵や水辺。
東へ向かえば桃山丘陵の落ち着いた住宅地です。
伏見は「歴史があるから暮らしにくい町」ではありません。
歴史ある町並みの中に、交通、買い物、学校、医療などの日常生活が自然に重なっています。
龍馬の時代から人が行き交ってきた町だからこそ、今も生活の動線が集まりやすい。
そんな歴史と暮らしのつながりを感じられることが、伏見で暮らす面白さだと思います。
≫ 編集後記
坂本龍馬について調べ始めると、どうしても「寺田屋事件」というドラマチックな出来事に目が向きます。
けれども今回、伏見の町そのものから龍馬を見直してみると、まったく違う風景が見えてきました。
船が着き、人が降り、宿に泊まり、京都へ向かう。
商人も大名も志士も、同じ町を通っていました。
龍馬もまた、その大きな人の流れの中を歩いていた一人だったのでしょう。
次に中書島から寺田屋へ歩くときは、ぜひ現在の道路だけでなく、かつてそこにあった「水の道」を想像してみてください。
いつもの伏見が、幕末の巨大な交通ターミナルに見えてくるかもしれません。
≫ FAQ|坂本龍馬と伏見について
Q1.坂本龍馬はなぜ伏見を何度も訪れたのですか?
伏見は京都と大坂を結ぶ水運・陸運の重要拠点だったためです。寺田屋という信頼できる船宿があり、薩摩藩などとのつながりもあったことから、京都と大坂方面を行き来する龍馬にとって利用しやすい場所だったと考えられます。
Q2.寺田屋は坂本龍馬の定宿だったのですか?
京都市伏見区の資料では、寺田屋は坂本龍馬の定宿だったと紹介されています。女将のお登勢とも親しい関係にあり、龍馬はお登勢を慕っていたと伝えられています。
Q3.寺田屋騒動と坂本龍馬の寺田屋事件は同じ出来事ですか?
違います。1862年の寺田屋騒動は薩摩藩内部の対立によって起きた事件です。龍馬が伏見奉行所の捕方に襲われた寺田屋事件は1866年に起きました。
Q4.現在の寺田屋は龍馬が宿泊した当時の建物ですか?
京都市公式資料では、寺田屋は1868年の鳥羽伏見の戦いで罹災・焼失し、現在の建物はその後に再建されたものとされています。
Q5.坂本龍馬ゆかりの伏見を歩くなら、どこがおすすめですか?
京阪中書島駅から伏見港、京橋、寺田屋、竜馬通り商店街、宇治川派流、酒蔵、大手筋商店街へ向かうルートがおすすめです。幕末の交通拠点と現在の伏見の暮らしを同時に感じられます。
関連記事
.png)









