
≫ 城はなくなったのに、400年以上前の「まちづくり」が今も生きている
伏見桃山のまちを歩いていると、不思議なことに気づきます。
大きな天守閣や城壁が連続して残っているわけではないのに、どこか「城下町らしい」。
その理由は、私たちが普段歩いている道や町名、商店街、水路の中にあります。
伏見城は姿を消しましたが、豊臣秀吉がつくった「まちの骨格」は完全には消えませんでした。
大手筋、京町、両替町、銀座町、桃山町島津、桃山町正宗……。
いつもの風景を少し違った目で眺めると、現在の伏見の下から400年以上前の城下町が見えてきます。
≫ 今回の秘密
この記事では、こんなことが分かります。
- なぜ豊臣秀吉は伏見に大規模な城下町をつくったのか
- 現在の道路に残る伏見城下町の痕跡
- 戦国武将の名前が町名として残っている理由
- 大手筋と伏見城の意外な関係
- 城がなくなった後も伏見が栄え続けた理由
知ったあとに伏見桃山を歩くと、いつもの道が少し違って見えるはずです。
≫ 秘密① 伏見は「お城だけ」ではなく、町そのものがつくられた
伏見の歴史を語るとき、どうしても主役になるのが豊臣秀吉と伏見城です。
しかし、本当に面白いのは城だけではありません。
秀吉は伏見に城を築くのと並行して、周辺の町そのものを大きくつくり変えていきました。
京都市によると、文禄3年(1594年)ごろから城下町の町割りや開発が急速に進み、武家屋敷、寺社、町家、道路などが整備されました。
つまり約430年前、伏見では巨大な「都市開発」が行われていたのです。
全国から有力大名が集められ、その周辺には商人や職人も集まります。
お城が一つ建ったというより、
「政治・経済・物流・住宅をまとめた新しい都市が誕生した」
と考えたほうが、当時の伏見をイメージしやすいでしょう。
しかも秀吉は水運にも目を向けました。
宇治川の流路改修などが進められ、伏見は城下町であると同時に、水上交通の拠点へ発展していきます。
現在の伏見が「歴史の町」「酒蔵の町」「水の町」という複数の顔を持っている原点は、この時代までさかのぼることができるのです。
≫ 秘密② 何気なく歩いている「道」が城下町の遺構だった
伏見の城下町らしさを探すなら、建物ばかり見ていてはいけません。
ぜひ「道」を見てください。
京都市の資料では、城下町の町人居住区では南北に延びる京町通と両替町通が中核となっていたことが確認できます。
そして現在も、京町や両替町という名前は普通に使われています。
400年以上前の都市計画が、現在の住所や道路の中に残っているわけです。
さらに面白いものがあります。
伏見南浜周辺などを歩いていると、交差点なのに道路の中心が微妙にずれている場所があります。
京都市は、こうした特徴的な交差点を「四辻の四つ当たり」と呼び、歴史的な城下町の面影を伝える都市基盤として紹介しています。
「なんでこの道、ちょっとずれているんやろ?」
普段なら通り過ぎてしまうところですが、その違和感自体が歴史の手掛かりなのです。
伏見の面白さは、歴史が資料館の中だけに保存されているのではなく、現役の生活道路として使われ続けていることにあります。
≫ 秘密③ 「島津」「正宗」「毛利長門」住所を見るだけで戦国時代が見える
伏見で不動産の住所を見ていると、ときどき驚くような町名に出会います。
たとえば、
「桃山町島津」
「桃山町正宗」
「桃山毛利長門東町・西町」
などです。
実は桃山周辺には、伏見城下に屋敷を構えた大名や武家に由来するとされる町名が数多く残されています。
京都市も、伏見城下には石田三成や浅野長政をはじめ、全国の有力大名の屋敷が置かれていたことを紹介しています。
つまり桃山の住宅街を歩くことは、かつての「大名屋敷エリア」を歩くことでもあるのです。
ここが伏見のすごいところ。
城跡へ行かなくてもいいのです。
住宅の住所表示を見たり、地図アプリで町名を眺めたりするだけで戦国時代につながります。
地元の方にとっては当たり前の町名でも、由来を知った瞬間、
「えっ、そんな意味やったん?」
となるかもしれません。
これこそ伏見ならではの“住所で楽しむ歴史散歩”です。
≫ 秘密④ 大手筋商店街の「大手」は、伏見城の大手門につながる名前
伏見桃山といえば大手筋商店街。
買い物や食事で利用する方も多く、現在の伏見を代表する生活の中心地です。
ところで、
「大手筋」の“大手”って何?
と思ったことはありませんか。
京都市の歴史資料では、伏見大手筋は伏見城の大手門に面した道路だったとされています。
つまり私たちが現在歩いている大手筋は、城下町の中心へ向かう重要な軸の一つだったのです。
これを知ってから大手筋を東へ歩いてみてください。
商店街を抜け、近鉄桃山御陵前駅周辺を越え、その先の桃山の高台を意識すると、「城へ向かう道」という感覚が少し見えてきます。
現代ではスーパー、飲食店、銀行、商店などが集まる生活道路。
約400年前には伏見城を中心とした町の重要な道路。
役割は変わっても、人が集まる町の軸であり続けているところが面白いのです。
≫ 秘密⑤ 城がなくなっても、伏見は「港町」として生き残った
ここが伏見の歴史で、とても大切なポイントです。
伏見城は永遠には続きませんでした。
関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失したのち徳川家康によって再建されましたが、江戸時代初期には役割を終え、元和9年(1623年)の徳川家光の将軍宣下を最後に廃城へ向かいます。
普通なら、巨大な城がなくなれば城下町も衰退しそうです。
ところが伏見は違いました。
理由の一つが水運です。
伏見には宇治川、濠川、宇治川派流などにつながる水路があり、さらに江戸時代には高瀬川によって京都中心部とも水運で結ばれました。
大坂と京都をつなぐ人や物が伏見を行き交います。
伏見は、
「城の町」から
「港と商業の町」へ。
都市の役割を変えながら生き残ったのです。
現在、宇治川派流沿いを歩くと柳、水面、酒蔵が並びます。
美しい観光風景として見ても十分魅力的ですが、その景色は伏見が城下町の後も都市として生き続けた歴史そのものでもあります。
そして酒造業や商業が発展し、現在の伏見へつながっていきました。
伏見に城下町の面影が残った最大の理由は、古い町が保存されただけではなく、その町で人々が暮らし、商いを続けてきたからなのかもしれません。
≫ 実際に歩いてみよう|「城下町の痕跡」を探す伏見散歩
おすすめは、京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前駅周辺からスタートするコースです。
伏見大手筋商店街
↓
京町・両替町周辺
↓
御香宮神社周辺
↓
桃山の旧大名屋敷ゆかりの町名を探す
↓
大手筋方面へ戻る
↓
南浜・宇治川派流
↓
酒蔵の町並み
この順番で歩くと、
「城下町」
→「町人の町」
→「港町」
→「酒蔵の町」
という伏見の変化を感じやすくなります。
春は桜、初夏は柳の新緑、秋は散策しやすい気候でおすすめ。
写真を撮るなら宇治川派流沿いの酒蔵と柳はもちろんですが、この記事を読んだ方にはぜひ町名表示や少しずれた交差点にもカメラを向けてほしいところです。
子どもと歩くなら、
「戦国武将みたいな名前の町を何個見つけられる?」
というゲームにしても面白いですよ。
≫ 地元民しか知らない豆知識
|実は伏見に「日本初の銀座」があった
「銀座」と聞けば東京を思い浮かべますよね。
ところが伏見には現在も銀座町があります。
徳川家康の時代、伏見には銀貨の鋳造などに関わる「銀座」が置かれました。
京都市伏見区も、この伏見の銀座を「日本初の銀座」と紹介しています。
東京の銀座のイメージが強すぎて、地元でも意外と知られていない伏見自慢の一つです。
|「桃山」は城がなくなった後の風景から生まれた
もう一つ面白いのが「桃山」。
伏見城が廃城となった後、城跡一帯には桃の木が植えられ、そこから「桃山」という地名が生まれたと京都市の資料に記されています。
今では全国的に知られる「安土桃山時代」という言葉。
その「桃山」が、私たちが日常的に使っている伏見の地名と深く結びついているのです。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
不動産の仕事をしていると、伏見桃山では住所を見るだけでも街の歴史を感じることがあります。
大名に由来する町名の住宅地があり、城へ向かった大手筋が今では買い物の中心になり、その先には酒蔵と水辺の風景がある。
これほど異なる時代が普段の暮らしの中に重なっている町は、そう多くありません。
一方で、現在の伏見桃山は歴史だけの町でもありません。
京阪・近鉄・JRを利用でき、大手筋周辺には商店街や生活施設が集まり、少し歩けば落ち着いた住宅地があります。
「歴史のある場所へ遊びに行く」のではなく、
歴史の中で普通に暮らせる。
それが伏見桃山の大きな魅力だと私たちは感じています。
≫ 編集後記
伏見城そのものを探そうとすると、「意外と何も残っていない」と感じる方がいるかもしれません。
でも、町を歩けば印象は変わります。
大手筋を歩き、京町や両替町という住所を見て、大名の名前が残る桃山を通り、水辺へ下りていく。
すると、伏見城はなくなっても「城下町はなくなっていない」と感じます。
伏見の歴史は、ガラスケースの中にあるものではありません。
今日も車が走る道、子どもたちが歩く通学路、買い物をする商店街、そして私たちが暮らす住所の中にあります。
次に伏見を歩くときは、ぜひ建物だけでなく「道」と「町名」を見てみてください。
きっと今までとは違う伏見が見えてきます。
≫よくある質問(FAQ)
Q1. 伏見は本当に城下町だったのですか?
はい。豊臣秀吉による伏見城築城に伴い、1590年代に武家屋敷、町家、寺社、道路などを含む大規模な城下町が整備されました。現在の伏見桃山周辺の市街地には、その都市構造を受け継いでいる部分があります。
Q2. 伏見城は現在も残っていますか?
豊臣秀吉や徳川家康の時代の伏見城そのものは残っていません。現在見られる伏見桃山城は歴史上の伏見城の天守がそのまま現存したものではないため、区別して考える必要があります。一方、城跡周辺には堀の一部や町割、町名などに歴史の痕跡が残っています。
Q3. なぜ伏見には戦国武将の名前の町名が多いのですか?
伏見城下には全国の有力大名や武将の屋敷が置かれました。その記憶が桃山町島津、桃山町正宗、桃山毛利長門東町・西町など、現在の町名にも残っています。
Q4. 「伏見大手筋」の大手とは何ですか?
伏見城の大手門に由来します。現在の大手筋は商店街として知られていますが、その名前と道路には伏見城下町の歴史が残っています。
Q5. 伏見城がなくなった後、伏見は衰退しなかったのですか?
城下町としての役割は終わりましたが、伏見は京都と大坂を結ぶ水運・陸運の重要拠点として発展を続けました。江戸時代には港湾商業都市として栄え、その後の酒造業や商業の発展にもつながっていきます。
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