
≫ 川を動かし、港をつくり、町までつくった 伏見に残る430年前の巨大プロジェクト
伏見の酒蔵を歩いていると、柳の向こうを静かに流れる水辺に出会います。
十石舟が進み、白壁の酒蔵が水面に映る「宇治川派流」です。
あまりに自然な風景なので、
「昔からここを川が流れていたんだろうな」
と思ってしまいます。
ところが、その歴史をたどると驚きます。
現在の宇治川派流周辺の水路は、豊臣秀吉による伏見城と港の整備をきっかけに大きく形を変え、その後も琵琶湖疏水や近代の治水工事によって姿を変えてきました。
つまり、伏見の美しい水辺は「自然だけ」がつくった景色ではありません。
約430年にわたり、人が川と付き合い続けてきた結果なのです。
≫ 今回の秘密|この記事で分かること
・宇治川派流は本当に人工の川なのか
・豊臣秀吉がなぜ伏見に港をつくったのか
・宇治川派流と伏見城の「堀」の意外な関係
・今流れている水が、どこから来ているのか
・伏見の酒蔵がなぜ水辺に集まっているのか
≫ 秘密① 宇治川派流は「人工の川」なの?
最初に答えを言うと、
「人の手で大きく形づくられた川」という意味では、人工の川といってよいでしょう。
ただし、何もない土地に一本の運河をまっすぐ掘った、と考えると少し違います。
京都市の資料では、文禄3年、1594年、豊臣秀吉が伏見城を築く際、建築資材を運ぶために伏見港を開き、宇治川の流れを大きく改修したとされています。
京都市公式観光情報でも、伏見港・宇治川派流について、1594年の伏見城築城に伴う宇治川の流路改修によってつくられた河川港と説明されています。
当時の伏見周辺には、宇治川だけでなく巨大な巨椋池が広がっていました。
秀吉は城を一つ建てただけではありません。
川の流れを変え、堤防を築き、港をつくり、街道を整え、その周囲に城下町をつくりました。
現在でいうなら、
「駅と高速道路と物流港とニュータウンを、一体で開発する」
ような巨大プロジェクトです。
宇治川派流は、その都市計画の中から生まれた水辺なのです。
≫ 秘密② 秀吉が欲しかったのは「川」ではなく巨大な物流ターミナルだった
なぜ秀吉は、そこまでして伏見の川を整えたのでしょう。
理由を考えると、伏見という町のすごさが見えてきます。
伏見は、
京都
大坂
奈良
宇治
近江
を結びやすい場所にありました。
しかも宇治川から淀川水系を通れば、大坂方面まで舟で物資を運ぶことができます。
伏見城を建てるには、大量の木材や石材、米、人員が必要です。
それらを陸路だけで運ぶのは大変です。
そこで秀吉は「川」を交通網として利用しました。
伏見港が整備されると、伏見は単なる城下町ではなく、京都と大坂を結ぶ水運の重要拠点へ成長します。
江戸時代になると、伏見と大坂の間を三十石船などが往来するようになりました。
京橋付近には船着場があり、周辺には船宿、問屋、商家が並びます。
寺田屋が船宿だったのも、そのためです。
今では静かに見える宇治川派流。
しかし数百年前なら、
「船が着いた!」
「荷物を下ろせ!」
「大坂行きが出るぞ!」
という声が飛び交う物流ターミナルでした。
伏見を理解するうえで、とても大切なのはここです。
伏見は「京都の南の町」だったのではありません。
京都と大坂をつなぐ「京都の玄関口」だったのです。
≫ 秘密③ 宇治川派流をたどると「伏見城の堀」につながる
ここが地元の方にもぜひ知っていただきたいところです。
宇治川派流周辺を歩いていると「濠川」という名前を見かけます。
この濠川。
「濠」という漢字が使われているのには理由があります。
濠川は、伏見城の外堀として整備された水路を起源の一つとしています。
つまり、
伏見城の防御施設だった水路と、港町の物流を支えた水路が、同じ町の中でつながっているのです。
京都市の文化遺産資料でも、内陸を流れる宇治川派流・濠川は伏見城の建築資材の運搬などに利用され、宇治川との合流地点には伏見港が整備されたと紹介されています。
お城の「堀」というと、敵が入ってこないためのものを想像します。
ところが伏見では、
守るための水路であり、
物を運ぶ水路でもあり、
町を発展させる水路でもありました。
軍事施設と都市インフラが重なっているのです。
だから伏見を歩くと、
「城下町」
「港町」
「宿場町」
「酒蔵の町」
という、一見別々に見える歴史が全部つながってきます。
伏見の面白さは、ここにあります。
≫ 秘密④ 今流れている水のほとんどは「宇治川の水」ではない
ここで、かなり意外な話です。
名前は「宇治川派流」。
それなら当然、
「宇治川から分かれた水が流れている」
と思いませんか。
ところが現在の宇治川派流は、京都府の資料によると延長約2.7kmで、水源のほぼすべてを琵琶湖疏水に頼っています。
「えっ、琵琶湖?」
と思いますよね。
琵琶湖疏水は明治時代、琵琶湖の水を京都へ引くためにつくられました。
第1疏水は大津から京都へ入り、鴨川沿いを南下。
伏見までの区間は1894年に完成しました。
京都市上下水道局によると、鴨川沿いから深草、伏見を通り、最終的に濠川へつながっています。
つまり水の旅をたどれば、
琵琶湖
↓
山科
↓
蹴上
↓
京都市街
↓
深草
↓
伏見
↓
濠川・宇治川派流
と続いているのです。
酒蔵の横を流れている穏やかな水が、実は琵琶湖から長い旅をしてきた水。
これを知ってから宇治川派流を見ると、水面の見え方が少し変わってきませんか。
≫ 秘密⑤ 伏見の酒蔵が水辺に並んでいるのは偶然ではない
宇治川派流の魅力といえば、何といっても酒蔵の景観です。
白壁。
黒い焼杉板。
柳。
ゆっくり進む十石舟。
「京都らしい観光風景」として知られていますが、この町並みは観光のためにつくられたものではありません。
ここで人が働き、酒を造り、商品を運んできた結果として生まれました。
伏見は良質な地下水に恵まれ、酒造りが発展しました。
しかし、酒を造るだけでは産業にはなりません。
米を運ぶ。
樽を運ぶ。
造った酒を各地へ届ける。
そのためには交通が必要です。
伏見には水があり、港があり、街道がありました。
江戸時代には宇治川派流沿いに問屋、宿屋、酒蔵などが建ち、米、薪炭、酒などを運ぶ舟が行き交ったとされています。
つまり伏見が酒どころになった背景には、
「良い地下水」と
「便利な水運」
の両方があったのです。
水は酒を造り、水は酒を運びました。
これほど「水」と町の歴史が深く結びついている場所は、京都でもそう多くありません。
≫ 実際に歩いてみよう
宇治川派流の歴史は、地図を見るより実際に歩く方がよく分かります。
おすすめは、
京阪中書島駅 → 寺田屋 → 京橋 → 宇治川派流 → 月桂冠大倉記念館周辺 → 伏見であい橋 → 三栖閘門 → 中書島駅
という水辺ルートです。
京橋では「ここにたくさんの船が集まっていた」と想像してみてください。
月桂冠大倉記念館周辺では、酒蔵と川の距離に注目です。
伏見であい橋では、いくつもの水路がつながる伏見らしい景色が見られます。
さらに歩ける方は三栖閘門まで。
三栖閘門は、宇治川と濠川の水位差を調整して船を通すため、1929年に完成した施設です。
完成した年には2万隻を超える船が通航したと国土交通省は紹介しています。
仕組みは、いわば小さな「パナマ運河」。
水位の異なる二つの水面を、水門を使って船が行き来していました。
現在は舟運施設としての役割を終えていますが、伏見が本物の港町だったことを実感できる場所です。
|おすすめ季節
春は桜。
初夏は柳と新緑。
秋は水辺の木々が色づき、散策しやすい季節です。
写真を撮るなら、酒蔵と水面を一緒に写せる月桂冠大倉記念館周辺や、伏見であい橋がおすすめです。
子どもと歩くなら、
「この水はどこから来たと思う?」
「昔はここを何隻くらい船が通ったかな?」
とクイズにすると、町そのものが歴史の教材になります。
水辺ですので、小さなお子さま連れの場合は必ず安全に注意してください。
≫ 地元民しか知らない豆知識
「宇治川派流」という名前なのに、琵琶湖の水が流れている
これが今回いちばんの「へぇ!」ではないでしょうか。
宇治川派流という名前から、宇治川の水が枝分かれして流れている姿を想像します。
ところが現在は、水源のほぼすべてが琵琶湖疏水。
つまり、
「宇治川」という名前の川を、「琵琶湖」から来た水が流れている
という、少し不思議な状態なのです。
さらに上流へたどれば濠川、琵琶湖疏水へ。
歴史をさかのぼれば伏見城の外堀へ。
下流へ目を向ければ伏見港、宇治川、淀川、大坂へ。
宇治川派流は、わずか数キロの水路の中に、
豊臣秀吉
伏見城
琵琶湖疏水
伏見港
酒造り
淀川舟運
という伏見の歴史をぎゅっと詰め込んだ川なのです。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山・中書島周辺を歩いていると、「暮らし」と「歴史」の距離がとても近いことに気づきます。
大手筋商店街で日常の買い物をして、少し歩けば酒蔵。
さらに進めば宇治川派流。
京阪・近鉄の駅が利用しやすい市街地のすぐ近くに、これだけ歴史ある水辺が残っています。
不動産の仕事をしていると、駅から何分、スーパーまで何分、といった数字を見ることが多くあります。
もちろん大切です。
でも街の価値は数字だけではありません。
「夕方にどこを散歩したくなるか」
「子どもにどんな景色を見せられるか」
「10年住んでも好きでいられる町か」
そんなことも、住まい選びでは大事だと思います。
宇治川派流は、伏見の日常の中に歴史が生き続けていることを感じさせてくれる場所です。
≫ 編集後記
宇治川派流のほとりを歩くと、とても静かです。
柳が揺れ、十石舟が通り、酒蔵の白壁が水面に映ります。
でも目を閉じて430年前を想像すると、同じ場所に建築資材を積んだ舟が入り、江戸時代には旅人や商人が行き交い、近代には貨物船が三栖閘門を通っていました。
川は同じ場所にあっても、役割は時代によって変わります。
城をつくる川から、町を支える川へ。
物流の川から、散歩したくなる川へ。
それでも水辺が伏見の町をつないでいることは、昔も今も変わりません。
歴史を知ってから歩くと、伏見は少し立体的に見えてきます。
次に宇治川派流を渡るときは、ぜひ水面の向こうに430年分の伏見を想像してみてください。
≫ FAQ|宇治川派流についてよくある質問
Q1.宇治川派流は人工の川ですか?
宇治川派流は、完全に何もない場所へ一本の運河を掘ったというより、豊臣秀吉による宇治川の流路改修や伏見港の整備、伏見城の外堀、後世の河川改修などによって人為的に形づくられてきた水路です。そのため「人の手によって大きく整備された川」と考えるのが分かりやすいでしょう。
Q2.宇治川派流はいつ造られたのですか?
伏見港・宇治川派流の原型は、豊臣秀吉が伏見城を築いていた文禄3年、1594年ごろの宇治川流路改修と港の整備によってつくられたとされています。その後も江戸・明治・大正・昭和と改修が続き、現在の姿になりました。
Q3.宇治川派流の水は宇治川から来ているのですか?
現在の宇治川派流は、京都府の資料では水源のほぼすべてが琵琶湖疏水とされています。琵琶湖から京都市内を流れてきた疏水が伏見の濠川へつながり、宇治川派流へ流れています。
Q4.なぜ伏見には酒蔵が多いのですか?
良質な地下水に恵まれていることに加え、伏見港や淀川舟運によって米や酒などを運びやすかったことが大きな背景です。城下町として人が集まり、港町として物流が発達したことも酒造業の成長を支えました。
Q5.宇治川派流周辺は子どもと散策できますか?
できます。中書島駅周辺から寺田屋、酒蔵、宇治川派流、伏見であい橋、三栖閘門などを巡れば、歴史と水について学べます。ただし水辺ですので、小さなお子さまからは目を離さず、安全を優先してください。
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