
≫ 東海道は「五十三次」で終わらない? 京と大坂をつないだ、水陸交通の巨大ターミナル
「東海道五十三次」と聞くと、江戸・日本橋から京都・三条大橋までを思い浮かべますよね。
ところが江戸時代の旅人の中には、京都で旅を終えず、そのまま大坂へ向かう人もいました。
そこで重要な役割を果たしたのが伏見宿です。
しかも伏見は、ただ旅籠が並ぶ宿場町ではありませんでした。街道、港、三十石船、高瀬川、商人の町、そして伏見奉行所までが集まった、いわば江戸時代の「巨大な交通ターミナル」。
今の京橋や中書島を歩くと、その痕跡が意外なほど残っています。
≫ 今回の秘密|この記事で分かること
- 伏見宿が「東海道五十七次」の宿場と呼ばれる理由
- なぜ伏見が京都と大坂を結ぶ交通の要所になったのか
- 伏見宿が普通の宿場町とは少し違っていた理由
- 京橋や寺田屋が、江戸時代にどんな場所だったのか
- 今の伏見桃山・中書島を歩くと見つかる「宿場町の記憶」
≫ 秘密①|東海道は「五十三次」で終わりではなかった?
学校で習う東海道といえば、
日本橋から京都・三条大橋までの「東海道五十三次」
が有名です。
ところが江戸時代、東海道の交通は京都で完全に終わっていたわけではありません。
京都からさらに大坂方面へ向かう道があり、伏見・淀・枚方・守口という4つの宿場を加えて、「東海道五十七次」と捉える呼び方があります。国土交通省の資料でも、京街道の4宿を加えて57宿ともいうことが紹介されています。
その最初に位置するのが伏見宿です。
京都市も京橋について、
「東海道五十七次54番目の宿駅の中心」
と紹介しています。
ここが面白いところです。
「伏見は京都市内なのに、なぜ京都の次の宿場なの?」
と思いませんか。
現在は同じ京都市ですが、江戸時代の伏見は、京都の町中とは性格の異なる独立した都市として発達していました。
しかも、その始まりをたどると江戸時代より前、豊臣秀吉の伏見城下町へ行き着きます。
≫ 秘密②|伏見宿の土台をつくったのは豊臣秀吉だった
伏見が交通都市になった大きな転換点は、豊臣秀吉による伏見城と城下町の建設です。
秀吉は文禄3年(1594)、伏見城の建築資材などを運ぶため伏見港を開きました。
さらに宇治川周辺の大規模な土木工事を行い、太閤堤や槙島堤を築いて、宇治や奈良方面につながる交通網を整えていきます。
伏見はもともと、
京都
大坂
奈良
近江
を結びやすい場所でした。
さらに木津川・宇治川・桂川・鴨川などにつながる水運にも恵まれています。
つまり伏見は、
「道が集まる場所」であり、「水路が集まる場所」でもあった
のです。
現代で例えるなら、高速道路のインターチェンジと鉄道のターミナル駅、さらに物流港までが一か所に集まっているようなものです。
秀吉が伏見を選んだ理由も、伏見宿が後に発展した理由も、この地理を抜きには語れません。
そして伏見城が元和9年(1623)に廃城となった後も、秀吉が整えた町や交通網そのものが消えたわけではありませんでした。
ここから伏見は、
「城の町」から「交通と商業の町」へ
役割を変えていきます。
これこそ伏見という町の強さだったのではないでしょうか。
≫ 秘密③|伏見宿は「陸の宿場」であり「水の宿場」でもあった
伏見宿最大の特徴はここです。
普通「宿場町」と聞けば、街道沿いに旅籠や商店が並び、馬や人足が行き交う風景を想像します。
伏見にはそれだけでなく、船がありました。
江戸時代には淀川を利用して伏見と大坂が結ばれ、さらに高瀬川によって伏見と京都中心部もつながります。
京都市の資料によれば、17世紀後半には、
大坂 → 淀川 → 伏見 → 高瀬川 → 京都
という交通の大動脈が形成されました。
これはすごいことです。
大坂へ向かう人や荷物。
京都へ向かう人や荷物。
街道を歩く旅人。
船を待つ人。
荷物を積み替える商人。
宿を探す人。
それらが伏見で交わっていました。
つまり伏見宿は単なる「一泊する町」というより、
人と物が乗り換える町
だったのです。
その中心の一つが、現在も残る京橋周辺でした。
京都市によると、京橋には大坂との間を往来する三十石船などが頻繁に接岸し、昼夜を問わず、西国や京都、江戸へ向かう旅人でにぎわったとされています。
橋の北側には、寺田屋をはじめ数十軒もの船宿が並んでいました。
今の静かな宇治川派流を見ているだけでは、なかなか想像できません。
けれど江戸時代には、
「船が着いたぞ!」
「大坂へ出るぞ!」
「今夜は伏見に泊まろう」
そんな声が飛び交っていたのでしょう。
伏見の水辺は、風情を楽しむだけの場所ではなく、かつての物流最前線だったのです。
≫ 秘密④|寺田屋は「龍馬の史跡」になる前から重要だった
伏見の寺田屋と聞けば、ほとんどの人が坂本龍馬を思い浮かべるでしょう。
もちろん間違いではありません。
慶応2年(1866)、龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた「寺田屋遭難」の舞台として知られています。
しかし、伏見宿という視点で寺田屋を見ると、別の顔が見えてきます。
寺田屋はもともと、舟運を利用する旅人のための船宿でした。
京都市によると、当時の船着場には船宿が並び、常に2、3艘ほどの三十石船が停泊していたと伝えられています。
つまり龍馬が寺田屋を利用したのも、そこが単に有名な旅館だったからではありません。
伏見が京都・大坂方面へ移動するための交通拠点だったことが背景にあります。
歴史上の大事件だけを見ると、
「龍馬が泊まった宿」
で話が終わります。
でも町の歴史から見ると、
「なぜ龍馬が伏見にいたのか」
まで見えてくる。
ここが街歩きの面白さです。
なお、現在見られる寺田屋の建物については、京都市の地域情報でも鳥羽・伏見の戦いで旧建物が罹災し、その後再建されたものと説明されています。
「幕末当時の建物がそのまま残っている」と単純に考えないことも大切です。
≫ 秘密⑤|宿場町が消えても「道」は今の伏見に残っている
伏見宿の面白さは、史跡だけではありません。
現在の町そのものに歴史が埋め込まれています。
伏見桃山から大手筋、竜馬通り、寺田屋、京橋、中書島方面へ歩いてみてください。
商店街があり、
昔ながらの町家があり、
酒蔵があり、
細い道があり、
その先に水辺があります。
一見すると、それぞれ別の風景です。
しかし伏見宿の歴史を知ってから見ると、
商業の町+宿場町+港町
が重なってできた町だと分かってきます。
そして、その構造は現在の暮らしにも意外なほどつながっています。
駅があり、商店街があり、飲食店があり、住宅があり、少し歩けば歴史的な水辺へ出る。
伏見桃山・中書島周辺が現在も「歩いて用事を済ませやすい町」である背景には、長い時間をかけて人が行き交うことで形成された町の骨格があります。
もちろん、江戸時代の宿場町と現在の不動産価値を単純に結び付けることはできません。
それでも、
人が集まる場所に道ができ、商いが生まれ、その周りに暮らしが育つ。
その積み重ねを現在の伏見で感じられるのは、とても興味深いところです。
≫ 実際に歩いてみよう
|伏見宿の面影を探す散策ルート
おすすめは、京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前駅周辺から中書島方面へ下っていくコースです。
大手筋商店街
↓
納屋町周辺
↓
竜馬通り
↓
寺田屋
↓
京橋
↓
宇治川派流
↓
伏見であい橋周辺
↓
時間があれば三栖閘門方面へ
という流れなら、現在の商業都市から江戸時代の港町へ少しずつ景色が変わっていく感覚を楽しめます。
|おすすめの季節
特に歩きやすいのは春と秋です。
春は宇治川派流沿いの桜、新緑の季節には柳と水辺の景色がきれいです。
秋は気温も落ち着き、酒蔵や町家を眺めながらゆっくり歩くのに向いています。
|写真を撮るなら
京橋周辺から水辺を眺める構図がおすすめです。
さらに寺田屋周辺、宇治川派流沿いの酒蔵、伏見であい橋付近まで歩けば、「港町・伏見」らしい写真が撮れます。
|子どもと歩くなら
「昔の駅を探そう」というテーマにすると面白くなります。
電車の駅ではありません。
「船が着いた場所はどこ?」
「旅人はどこに泊まった?」
「大坂へ行くにはどちらへ進んだ?」
と親子で想像してみてください。
歴史の暗記ではなく、町そのものが教材になります。
≫ 地元民しか知らない豆知識|「中書島」は島だったの?
伏見宿を歩くなら「中書島」という地名にも注目してください。
そしてもう一つ覚えておきたいのが、伏見は城がなくなった後に終わった町ではないということです。
伏見城が廃城になると、政治都市としての役割は低下しました。
普通なら、そのまま町も衰えてしまいそうですよね。
ところが伏見は、京都と大坂の中間という立地、城下町時代に整えられた道路、高瀬川や淀川につながる水運を生かし、17世紀後半から経済都市として再び活気を取り戻しました。
つまり伏見は、
城下町 → 港町・宿場町 → 酒造の町 → 鉄道の町
と、時代が変わるたびに役割を変えて生き残ってきた町なのです。
さらに明治28年(1895)には、伏見と京都を結ぶ電気鉄道が開業。京都市はこれを日本で最初に営業運転を行った電車と紹介しています。
江戸時代は船。
明治時代は電車。
伏見は昔から「人を運ぶこと」と縁の深い町だったのですね。
これはなかなかの「へぇ!」ではないでしょうか。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山・中書島周辺を不動産の視点から見ても、この町はとても興味深いエリアです。
京阪本線、近鉄京都線を利用しやすく、大手筋商店街を中心に買い物や飲食の環境があり、少し南へ歩けば酒蔵や宇治川派流の歴史的な景観へ入っていきます。
観光地だけでもない。
住宅地だけでもない。
商業地だけでもない。
「暮らす・買う・歩く・歴史を楽しむ」が近い距離に重なっている。
これが伏見桃山から中書島にかけての大きな特徴です。
家を探すときも、駅から物件まで最短ルートだけを歩くのではなく、ぜひ一本横の道へ入ってみてください。
伏見は、寄り道をすると好きになる町です。
≫ 編集後記
伏見の歴史というと、伏見城、坂本龍馬、鳥羽・伏見の戦いが主役になりがちです。
でも私は、その間にある「普通の人たちの伏見」も面白いと思います。
船を降りた旅人。荷物を運んだ人。宿を営んだ人。酒を造った人。商いをした人。
京橋に立って水面を眺めると、教科書には名前の残らなかった大勢の人が、この場所を行き交ったことに気づきます。
伏見は「歴史上の事件が起きた町」だけではありません。
何百年もの間、人が行き交い、働き、暮らし続けてきた町。
そう思って歩けば、いつもの大手筋や中書島が少し違って見えてきます。
≫ FAQ|伏見宿についてよくある質問
Q1.伏見宿とは何ですか?
伏見宿は、江戸時代に京都と大坂を結ぶ交通路で重要な役割を担った宿場です。京街道の伏見・淀・枚方・守口の4宿を東海道に加え、「東海道五十七次」と呼ぶ場合があります。伏見宿はその54番目にあたります。
Q2.伏見宿は現在のどのあたりですか?
現在の京都市伏見区の伏見桃山・中書島周辺にあたり、特に京橋周辺は宿場と舟運の重要な場所でした。寺田屋周辺には多くの船宿が並んでいました。
Q3.なぜ伏見宿は栄えたのですか?
京都と大坂の間に位置し、陸路だけでなく淀川や高瀬川などを利用した水運にも恵まれていたからです。城下町時代に整備された交通網も、その後の宿場町・港町としての発展を支えました。
Q4.寺田屋は伏見宿とどんな関係がありますか?
寺田屋は坂本龍馬ゆかりの場所として有名ですが、もともとは舟運を利用する旅人などが泊まる船宿でした。伏見の港と宿場町としての歴史を知るうえで重要な場所です。 (
Q5.伏見宿の面影は現在も見られますか?
はい。京橋、寺田屋周辺、宇治川派流、酒蔵の町並みなどを歩くと、かつて伏見が港町・宿場町だったことを感じられます。現在の町並みは江戸時代そのものではありませんが、道や水辺、町の構造には歴史の重なりが残っています。
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