
≫ 江戸時代の伏見にあった「市役所+警察+税務署+河川管理事務所」のような場所
京都市伏見区の桃山御陵前駅から少し南へ歩くと、「西奉行町」「東奉行町」という町名があります。
なぜ、ここに「奉行」という名前が残っているのでしょう。
実はこの辺りには江戸時代、幕府の重要な役所「伏見奉行所」がありました。
時代劇のイメージから「悪人を裁くお奉行様の役所?」と思うかもしれません。
ところが調べてみると、その仕事は驚くほど幅広いものです。
町を治め、年貢を扱い、川や道を管理し、治安を守る。
伏見奉行所を知ると、江戸時代の伏見が「京都の南にある町」ではなく、幕府にとって非常に重要な都市だったことが見えてきます。
≫ 今回の秘密
この記事で分かることは、次の5つです。
- 伏見奉行所は、いつ、なぜ置かれたのか
- 伏見奉行は実際にどんな仕事をしていたのか
- なぜ伏見には大きな権限を持つ役所が必要だったのか
- 伏見奉行所と坂本龍馬、新選組、鳥羽・伏見の戦いとの関係
- 現在の伏見に残る「奉行所の記憶」
≫ 秘密① 伏見奉行所は「お裁き」をするだけの場所ではなかった
「奉行所」と聞くと、
「これにて一件落着!」
という時代劇の場面を思い浮かべる方も多いでしょう。
もちろん、治安や訴え事に関する仕事もありました。
しかし、伏見奉行の仕事はそれだけではありません。
京都市文化財保護課の研究によると、伏見奉行は伏見の町だけでなく、周辺農村、山林、道路、川なども管理していました。
さらに、村から納められる年貢にも関わっています。
つまり現代風にたとえるなら、
市役所、警察署、税務署、裁判所、河川管理事務所などの仕事を組み合わせたような存在
と考えるとイメージしやすいでしょう。
奉行一人ですべてを行ったわけではありません。
制度成立時には奉行を支える与力10騎、同心50人が置かれたことが、京都市文化財保護課の研究で確認されています。
さらに奉行自身の家臣もいました。
面白いのは、与力たちにも担当が分かれていたことです。
18世紀の記録には、川を担当する「川方」、農村行政などを担う「地方」、治安に関わる「盗賊改」、寺社を扱う「寺社方」、山林を扱う「山林方」などが確認できます。
「江戸時代のお役所」と聞くと単純に見えますが、実際にはかなり細かく仕事が分かれていたのです。
≫ 秘密② なぜ伏見は、それほど重要だったのか?
ここが今回いちばんの「なるほど!」ポイントです。
江戸時代の伏見を、現在の地図だけで考えてはいけません。
伏見は巨大な交通・物流都市でした。
宇治川から淀川へつながる水運があり、大坂方面と京都方面を結ぶ玄関口でもあります。
人だけではありません。
米、酒、薪、炭、魚、日用品など、さまざまな物が伏見を経由しました。
さらに街道も集まります。
つまり伏見は、
「人・物・お金・情報が集まる場所」
だったのです。
人が集まれば商売が生まれます。
商売が増えれば税や治安、道路、橋、船、川の管理も必要になります。
実際、正徳4年(1714)の記録では、伏見・六地蔵を合わせて263町、6,256軒、人口3万人余りという数字が残っています。
当時としては非常に大きな都市でした。
伏見奉行は、こうした巨大な町を管理していたのです。
さらに享保3年(1718)には河川支配の整理が行われ、伏見奉行が宇治川など一定範囲の川筋を担当したことも史料から確認されています。
伏見の発展を考えるとき、「酒」と「伏見城」だけを見るのでは少し足りません。
水運を支え、交通を管理する行政機能があったからこそ、伏見という都市が動いていた。
そう考えると、今の酒蔵や濠川、京橋周辺の景色まで違って見えてきます。
≫ 秘密③ 「伏見奉行の方が京都町奉行より偉かった」は本当?
ここには少し面白い話があります。
京都市文化財保護課の研究によると、役職上では京都町奉行が伏見奉行より上位にあり、伏見奉行は京都所司代の管轄下で京都町奉行から指示を受ける立場でした。
ところが、任命された人物の「格」を比べると不思議なことが起こります。
京都町奉行は基本的に旗本でした。
一方、伏見奉行には江戸時代を通じて1万石前後の大名クラスが何人も就任しています。
つまり、
組織上は京都町奉行が上なのに、奉行本人の身分や石高では伏見奉行の方が上になる場合があった
のです。
なぜでしょう。
研究では、伏見奉行が伏見町だけでなく、旧伏見城、旧大名屋敷のあった周辺農村などをまとめて管理していたことが注目されています。
いわば、
「城下町だった伏見を丸ごと管理する奉行」
だったわけです。
ちなみに、京都市伏見区役所の案内では「5万石級の大名」と紹介されることがありますが、京都市文化財保護課が示した歴代奉行一覧を見ると、実際には1万~1万5千石程度の大名も多く確認できます。
史料を細かく見ると、こうした違いが分かるのも歴史の面白いところです。
≫ 秘密④ 坂本龍馬を寺田屋で襲ったのも伏見奉行所だった
伏見奉行所は、幕末になると一気に歴史の表舞台へ出てきます。
その一つが坂本龍馬です。
慶応2年(1866)、伏見の寺田屋にいた坂本龍馬と三吉慎蔵が幕府側の捕方に襲われた「寺田屋事件」。
京都観光Naviでは、このとき寺田屋を襲ったのが伏見奉行所の捕吏だったと紹介されています。
龍馬は負傷しながらも脱出しました。
寺田屋と伏見奉行所は、今の感覚で見ると驚くほど近い場所にあります。
実際に歩いてみると、
「ここから役人たちが寺田屋へ向かったのか」
と、歴史が急に現実の距離になります。
伏見が幕末史によく登場するのは偶然ではありません。
京都と大坂を結ぶ交通の要衝だったからこそ、幕府側にとっても反幕府勢力にとっても、伏見を押さえる意味が大きかったのです。
≫ 秘密⑤ 最後は「鳥羽・伏見の戦い」の戦場になった
そして伏見奉行所最大の歴史的事件が、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いです。
幕府側の会津藩兵や新選組などが伏見奉行所周辺に布陣しました。
一方、そのすぐ北側にある御香宮神社周辺には薩摩藩など新政府側が陣を構えます。
地図で確認すると、この二つは本当に近い。
現在なら散歩で移動できる距離です。
さらに高台側からは砲撃が行われ、伏見市街は激しい戦場となりました。
京都市の資料によると、戦闘によって民家も炎上し、町の大半が焼かれる大きな被害を受けています。
伏見奉行所も戦火の中で焼失。
江戸幕府の伏見支配を象徴していた場所が、江戸時代の終わりを告げる戦いの舞台になったのです。
その後、奉行所跡は陸軍第16工兵大隊の敷地となり、戦後は連合国軍による接収などを経て、現在の桃陵団地へと姿を変えていきました。
江戸時代、幕末、近代軍隊、戦後、そして住宅地。
一つの土地に、日本の歴史が何層にも重なっています。
≫ 実際に歩いてみよう
おすすめは、
桃山御陵前駅 → 御香宮神社 → 伏見奉行所跡 → 京町通 → 大手筋商店街 → 寺田屋 → 京橋
というルートです。
まず御香宮神社へ。
鳥羽・伏見の戦いでは新政府側の陣となった場所です。
そこから南へ向かい、桃陵団地付近の伏見奉行所跡へ。
現在は大きな役所の建物が残っているわけではありません。
だからこそ、石碑を見ながら昔の地形を想像してみてください。
さらに京町通を歩けば、幕末の戦闘の痕跡を伝える場所もあります。
そのまま大手筋商店街を抜けて寺田屋、京橋方面へ。
ここまで歩くと、
「奉行所」「商人の町」「港」「街道」がかなり近い範囲に集まっていたことが体感できます。
おすすめは春と秋。
子どもと歩くなら、「江戸時代の警察署はどこ?」「龍馬はどちらへ逃げた?」などクイズにすると、歴史散歩がぐっと楽しくなります。
写真を撮るなら、御香宮神社の表門、伏見奉行所跡の石碑、京町通、酒蔵と濠川、京橋周辺がおすすめです。
※桃陵団地は現在も生活の場です。見学の際は住民の方の迷惑にならないよう、私有地や立入禁止場所には入らず静かに散策しましょう。
≫ 地元民しか知らない豆知識
「西奉行町」「東奉行町」は歴史そのもの
伏見奉行所跡を探すとき、ぜひ地図の町名にも注目してください。
現在も周辺には「西奉行町」「東奉行町」という名前が残っています。
建物がなくなっても、町名が江戸時代の役所の記憶を伝えているのです。
さらに研究によれば、奉行所周辺には与力や同心、奉行の家臣たちの屋敷も並んでいました。
元禄期以降の絵図では、与力10騎の屋敷が奉行所前の通りを挟んで西側7軒、東側3軒に配置されていたことまで分かっています。
何気なく歩いている住宅地が、約300年前には「伏見を動かしていた役人たちの町」だった。
これを知ってから西奉行町を歩くと、景色が少し違って見えませんか。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山の面白さは、「歴史地区」と「生活の町」が分かれていないことだと思います。
御香宮神社を出れば近鉄桃山御陵前駅があり、その先には大手筋商店街。
少し歩けば京阪伏見桃山駅があり、南へ向かえば酒蔵や濠川の町並みがあります。
さらに住宅地の中には伏見奉行所の記憶まで残っています。
電車、買い物、学校、医療施設など日常生活に必要なものが集まる一方、その道を少し曲がるだけで江戸時代や幕末につながる。
「歴史のある町に住む」というより、日常生活の中に歴史がある町。
それが伏見桃山の大きな魅力です。
≫ 編集後記
伏見奉行所を調べていると、改めて伏見は「ただの城下町ではなかった」と感じます。
川があり、港があり、街道があり、人が集まり、商売が生まれる。その巨大な都市を動かすために、奉行所という行政組織が必要でした。
今では奉行所の建物はありません。
それでも西奉行町という町名を歩き、御香宮から寺田屋、京橋へ向かえば、江戸時代の都市の骨格が今の町の中に重なって見えてきます。
有名な建物だけが歴史ではありません。
いつもの道や町名に「なぜ?」を一つ加えるだけで、伏見はもっと面白くなる。
そんな発見を、これからも一緒に探していきたいと思います。
≫ FAQ|伏見奉行所についてよくある質問
Q1.伏見奉行所は何をする場所だったのですか?
伏見の町や周辺地域を治める江戸幕府の役所です。町の行政や治安だけでなく、年貢、道路、山林、河川など幅広い仕事を担当していました。
Q2.伏見奉行所はいつできたのですか?
前身となる上方郡代・代官奉行の組織が先に存在しますが、京都市文化財保護課の研究では「伏見奉行」という制度の創設は寛文6年(1666)と整理され、初代奉行は水野忠貞とされています。小堀政一(遠州)など、それ以前の担当者を含めて伏見奉行の歴史を説明する資料もあるため、成立時期の表現には注意が必要です。
Q3.伏見奉行所は現在も残っていますか?
建物そのものは残っていません。現在の桃陵団地周辺に奉行所跡を示す石碑などがあり、京都市の史跡・名所案内でも紹介されています。
Q4.伏見奉行所と坂本龍馬には関係がありますか?
あります。慶応2年(1866)の寺田屋事件では、伏見奉行所の捕吏が坂本龍馬らを襲撃しました。寺田屋と奉行所跡は徒歩で巡れる距離にあります。
Q5.伏見奉行所は鳥羽・伏見の戦いと関係がありますか?
深く関係しています。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、会津藩や新選組など旧幕府側の拠点となり、御香宮神社周辺などに布陣した新政府側と戦闘になりました。奉行所は戦火で焼失しました。
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