
≫ 江戸ではなく伏見で将軍になった家康 桃山の町に残る徳川時代の痕跡を歩く
京都の伏見城と聞いて、真っ先に思い浮かぶ人物は「豊臣秀吉」ではないでしょうか。
ところが、伏見の歴史をもう少し先までたどると、もう一人の天下人が見えてきます。
徳川家康です。
しかも家康は、ただ伏見城を使っただけではありません。
関ヶ原の戦い後に城を再建し、ここを政権の重要拠点とし、1603年には伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。
つまり伏見は、「豊臣時代の終着点」であると同時に、徳川の時代が動き出した場所でもあったのです。
今も桃山の坂道や両替町、御香宮神社を歩くと、その歴史が意外なほど身近に残っています。
≫ 今回の秘密
この記事では、こんなことが分かります。
- 徳川家康が伏見城を重要視した理由
- 家康が「江戸ではなく伏見」で将軍になった事実
- 関ヶ原の戦いと伏見城の深い関係
- 日本の「銀座」のルーツが伏見にあること
- 今も町名や神社に残っている徳川時代の痕跡
≫ 秘密① 家康は「秀吉の城」を徳川政権の拠点に変えた
伏見城を築いた人物といえば豊臣秀吉です。
秀吉による伏見城の築城によって、伏見には全国の大名や商人、職人たちが集まり、大きな城下町がつくられました。
1598年、秀吉は伏見城で亡くなります。
その後、五大老の一人だった徳川家康が伏見城に入り、豊臣政権の政務に関わるようになります。
ここで大切なのは、
「秀吉が亡くなったから、すぐ江戸時代になった」わけではない
ということです。
豊臣秀頼は健在で、家康もまだ「徳川幕府の将軍」ではありません。
伏見城は、豊臣政権から徳川政権へ移っていく、その微妙な時代の政治の舞台でした。
そして1600年。
家康が会津の上杉景勝への対応のため東へ向かうと、西軍は徳川方が守る伏見城を攻撃します。
いわゆる伏見城の戦いです。
城を守った鳥居元忠らは激しく抵抗しましたが、伏見城は落城しました。
その後に起きたのが関ヶ原の戦いです。
つまり伏見城の戦いは、関ヶ原につながる重要な前哨戦だったのです。
≫ 秘密② 家康が「征夷大将軍」になった場所は江戸ではなく伏見城
ここが今回、一番知っていただきたい秘密です。
1603年2月12日。
徳川家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。
「江戸幕府なのだから、江戸城で将軍になったのでは?」
と思いませんか。
実は違います。
朝廷からの勅使が伏見城を訪れ、家康はここで征夷大将軍・右大臣などに任じられています。
しかも家康だけではありません。
1605年には二代将軍となる徳川秀忠も伏見城で将軍宣下を受け、さらに1623年には三代将軍・徳川家光も伏見城で将軍宣下を受けました。
家康・秀忠・家光。
徳川幕府の最初の三代が、伏見城と深く結びついているのです。
「江戸幕府」という名前から、政治の中心は最初から江戸だけだったように感じます。
しかし幕府成立期の家康にとって、伏見は極めて重要な場所でした。
京都の朝廷に近く、大坂の豊臣氏にも目を配れる。
さらに水路・陸路によって京都、大坂、奈良方面へ動きやすい。
地図を眺めると、家康が伏見を重視した理由がよく分かります。
伏見城は単なる「秀吉の思い出の城」ではなく、徳川政権初期の上方拠点でもあったのです。
≫ 秘密③ 「銀座」という言葉のルーツを伏見で見つけられる
東京の銀座。
日本を代表する繁華街ですが、その「銀座」という名前につながる歴史を伏見で見ることができます。
関ヶ原の戦いの翌年、1601年。
家康は伏見に銀座を設けました。
銀座とは、現在のショッピング街の名前ではありません。
銀貨の鋳造などを担った組織・施設です。
家康は後藤庄右衛門、末吉勘兵衛らに銀座の取り立てを命じ、伏見に屋敷地を与えました。
その後、1608年に銀座は京都の両替町へ移されますが、伏見には今も、
「銀座町」
という町名があります。
さらに近くには、
「両替町」もあります。
何気なく通っている道路標識の町名が、400年以上前の日本の金融・貨幣制度につながっている。
これこそ伏見の面白さです。
歴史は博物館の展示ケースだけにあるのではありません。
伏見では、今の住所そのものが歴史資料になっています。
≫ 秘密④ 家康は御香宮神社にも大きな足跡を残している
伏見桃山駅から東へ歩くと見えてくる御香宮神社。
伏見の人には「御香宮さん」として親しまれている神社です。
実はここにも家康の足跡があります。
豊臣秀吉は御香宮神社を伏見城内へ移し、城の鬼門を守る神としていました。
ところが家康は1605年、神社を旧地へ戻し、現在の本殿を造営しました。
現在の本殿は国の重要文化財です。
つまり私たちが今見ている御香宮神社の中心的な建物には、徳川家康の時代がそのままつながっているのです。
さらに表門も重要文化財で、伏見城の大手門を移したものと伝えられています。
ただし、こうした「伏見城からの移築」については、伝承と建築史・考古学的な確認を分けて考える必要があります。
伏見城そのものは失われましたが、その部材や建築文化は各地へ移ったと考えられています。
城が消えたのではなく、
「城が町や寺社へ散らばっていった」
と考えると、伏見城跡の見方が少し変わってきます。
≫ 秘密⑤ 家康の伏見城は、なぜ消えてしまったのか
これほど重要だった伏見城。
では、なぜ現在残っていないのでしょうか。
大坂の陣によって豊臣氏が滅亡すると、伏見城の軍事的・政治的な役割は次第に小さくなっていきます。
そして1623年、三代将軍・家光が伏見城で将軍宣下を受けた後、伏見城は廃城へ向かいました。
建物は各地へ移されたと伝わり、城跡には後に桃の木が植えられます。
これが「桃山」という地名につながったと京都市は説明しています。
現在、本丸跡周辺は明治天皇伏見桃山陵となっており、かつての城郭をそのまま見ることはできません。
そして、現在見える「伏見桃山城」の天守は当時の天守そのものではありません。
1964年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の施設として建てられた模擬天守です。
ここは間違えやすいポイントです。
けれども、本物の天守が残っていないからこそ面白い。
坂道、堀の痕跡、町名、神社、道路の向き。
町全体から城を想像するのが、伏見城歩きの醍醐味なのです。
≫ 実際に歩いてみよう
おすすめは、「家康の伏見」を探す約2〜3時間の散策です。
スタートは近鉄「桃山御陵前」駅、または京阪「伏見桃山」駅。
まず御香宮神社へ向かい、家康が造営した本殿を見ます。
そこから桃山丘陵方面へ。
伏見城跡周辺の高低差を実際に歩くと、「なぜここに城を置いたのか」が少しずつ体で分かってきます。
その後は坂を下り、両替町・銀座町方面へ。
最後は伏見大手筋商店街まで歩くのがおすすめです。
大手筋という名前も、もともとは伏見城の大手門へ向かう道に由来します。
|おすすめ季節
春と秋がおすすめです。
特に春は桃山という名前を意識しながら歩くと、城跡の歴史を想像しやすくなります。
|写真スポット
御香宮神社の表門や境内、桃山丘陵の坂道、銀座町・両替町などの町名表示は、「今と昔が重なる伏見」らしい写真になります。
|子どもと歩くなら
「家康の痕跡を何個見つけられるかな?」
と宝探しのように歩いてみてください。
城そのものを見るより、町名や坂道から昔の城を想像する方が、意外と子どもは夢中になります。
≫ 地元民しか知らない豆知識
伏見には、大名の名前に由来する町名が今もたくさん残っています。
たとえば「桃山毛利長門」「桃山井伊掃部」「桃山筒井伊賀」など。
伏見城の周囲に大名屋敷が並んでいた名残です。
そして伏見大手筋の「大手」も城の正面を意味する言葉。
普段の買い物で歩いている商店街が、実は巨大な城下町のメインストリートにつながっていたと考えると面白いですよね。
伏見の古い町名は、住所ではなく「地面に残された歴史の目次」なのです。
≫ センチュリー21ホームサービス伏見桃山店からひとこと
伏見桃山周辺を日々歩いていると、この街の魅力は「歴史的な名所があること」だけではないと感じます。
京阪・近鉄・JRの駅が利用でき、大手筋商店街など日々の買い物環境があり、その暮らしのすぐ横に御香宮神社や伏見城下町の記憶が残っています。
子どもと通る道が、かつて大名屋敷の並んだ道だった。
いつもの買い物で歩く「大手筋」が、お城につながる道だった。
そんな歴史と日常の距離の近さが、伏見桃山という街の大きな魅力ではないでしょうか。
≫ 編集後記
伏見城を調べ始めると、どうしても豊臣秀吉の物語に目が向きます。
けれど、その続きを追いかけてみると、徳川家康、秀忠、家光へと一本の線がつながりました。
そして面白いのは、その歴史が現在の伏見から完全には消えていないことです。
銀座町、両替町、大手筋、御香宮、桃山の坂道。
400年前の人々が歩いた町の骨格の上で、今も私たちは買い物をし、学校へ通い、家に帰っています。
伏見を好きになるきっかけは、有名な観光地だけではありません。
いつもの道の名前に「なぜ?」を一つ持つこと。
そこから伏見は、驚くほど面白い街になります。
≫ FAQ|よくある質問
Q1.徳川家康は伏見城で何をしたのですか?
豊臣秀吉の死後に伏見城を政治拠点として利用し、関ヶ原の戦い後には城を再建しました。1603年には伏見城で征夷大将軍の宣下を受けています。
Q2.家康は江戸城で将軍になったのではないのですか?
いいえ。1603年2月12日、家康は伏見城で朝廷の勅使を迎え、征夷大将軍に任じられました。江戸幕府成立を考えるうえで、伏見城は非常に重要な場所です。
Q3.伏見城の戦いとは何ですか?
1600年、関ヶ原の戦いに先立って西軍が徳川方の伏見城を攻撃した戦いです。鳥居元忠らが城を守りましたが落城しました。関ヶ原につながる重要な前哨戦と位置づけられています。
Q4.現在の伏見桃山城は家康時代の建物ですか?
いいえ。現在見える天守は1964年に開園した伏見桃山城キャッスルランドの施設として建設された模擬天守です。当時の伏見城天守そのものではありません。
Q5.伏見の「銀座町」は東京の銀座と関係がありますか?
「銀座」という名称の由来をたどるうえで深い関係があります。1601年に家康が伏見に銀座を設け、その後京都へ移転しました。伏見には現在も銀座町という地名が残っています。
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